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イギリス史

16世紀後半のイギリス エリザベス1世、スペイン無敵艦隊を破る

16世後半、日本では織田信長豊臣秀吉が天下統一に向かっていた安土桃山時代である。
 このころ、エリザベス1世の黄金期を迎えていた。エリザベス1世は、巨大帝国スペインと果敢に戦い続けた。それを支えたのが、新興地主ジェントリーらで構成されるイングランド議会であった。

16世紀とテューダー朝

16世紀テューダー朝の時代である。イギリス国教会や星室裁判所など、国王の権限が強化された時代であった。

ブラッディ・メアリーとスペイン

   エドワード6世の後を継いだのは、メアリである。ヘンリ8世に捨てられたスペイン王室のキャサリンの娘である。メアリは、ローマ教皇に謝罪。直ちにイングランド国教会関連の法律を次々廃止した。修道院復活のため、ジェントリーから土地を没収して返還する法案を提出した。しかし、この頃のジェントリーはすでにイギリス議会の多数派を占めていた。そのため、これは実現しなかった。この事件によって、ジェントリーとカトリックの関係は悪化した。
 メアリ1世が即位すると、カトリック教徒は大いに喜んだ。一方で、プロテスタントは、悲しむどころか命の危険を感じるようになった。イングランドにいるプロテスタントはおもにカルヴァン派である。イングランドカルヴァン派ピューリタンと呼ばれた。ピューリタンの多くは海外へ亡命した。また、国内に残ったピューリタンの中には処刑されるものも多くいた。そのため、メアリ1世は、ブラッディ・メアリ(血のメアリ)と呼ばれた。
 また、メアリ1世はスペインとの同盟を強化していた。このころ、スペインは、フェリペ2世の時代に代わっていた。メアリ1世は、スペイン国王フィリペ2世と結婚した。ハプスブルク家は、スペイン=ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家に分裂していた。強国スペインには、イギリスと同盟したい理由があった。それはフランスとの戦争である。婚姻が成立すると、スペイン・イングランド連合軍はフランスと戦争を開始した。しかし、スペイン・イングランド連合軍は敗戦。イングランドは大陸領土のカレーを失った。
 メアリ1世もまた、子宝に恵まれなかった。子どもを残すことなく、即位から5年、病に倒れこの世を去った。

ヴァージン・クィーン エリザベス女王の即位

16世紀はテューダー朝の時代である。スペイン国王と結婚していたメアリ女王が亡くなり、麗しき若き女王、エリザベス女王が即位した。若き女王は、独身を貫き、イギリスの黄金期を率いていった。

宗教問題 イギリス国教会は折衷案で

 彼女の母は、メアリ1世の母キャサリンの侍女であった。そのため、宗教的こだわりはなかった。しかし、議会で多数派を占めているジェントリの支援の下、メアリ1世が廃止したイギリス国教会関連の法律を復活させた。しかし、祭祀のやり方については、カトリックに配慮した方法をとった。そのため、穏健なカトリック派や穏健なプロテスタントの支持を集めた。しかし、敬虔なカトリック教徒や敬虔なプロテスタントから批判を浴びた。とくに、メアリ1世の時代に命を狙われた敬虔なカルヴァン派はすさまじく反発した。そのため、イギリス国教会の人から「純粋(ピュア)すぎる」と揶揄された。それが語源となって、イングランドカルヴァン派ピューリタンと呼ばれた。

外交問題① もう一人のイングランドの後継者とフランス

 イングランドには、もう一人後継者が存在した。スコットランド王室である。15世紀末のヘンリ7世の結婚政策でヘンリ7世の娘がスコットランドへ嫁いでいた。そのスコットランド王室でスキャンダルが発生。一人の女性がイングランドへ亡命した。その女性はスチュアート=メアリであった。北部のカトリック教徒の大貴族はこのメアリを担いで反乱を起こした。しかし、この貴族反乱は失敗した。貴族反乱の失敗は王権を強くする。この反乱によりエリザベス女王の権力は高まった。

 この戦争の結果を見て、スコットランド・フランス連合軍はイングランドと和睦した。フランスはスコットランドから撤兵した。当時のフランスは、14世紀の百年戦争で成立したヴァロワ朝の末期であった。このあと、フランスは、ユグノー戦争の内乱時代に入る。

 一方、スコットランド王室は、17世紀にエリザベス女王が亡くなると、イングランド王を兼務。ステュアート朝が始まる。

外交問題② スペインとオランダ独立戦争

  イングランドとスペインの関係は悪化していきます。フランスとの単独講和。ネーデルラントの独立。スチュアート=メアリの乱で多くのカトリック貴族を処刑である。しかし、スペインを最も怒らせたのは、海賊問題である。当時、イングランドはなどは謎の許可書を発行していた。海賊行為に許可証を与えていたのである。エリザベス1世の許可書を得たイギリス国王公認海賊は、主にスペイン船を襲った。当時スペインの船にはポトシ銀山でとれた大量な銀が積まれていた。

 当時、スペインはヨーロッパ最強の国家である。新大陸アメリカのポトシ銀山の銀で経済大国になっていた。オーストリア=ハプスブルグ家とは分裂したものの、北海貿易の拠点のネーデルラント、レバント貿易の拠点イタリアに領土を持っていた。隣国フランス=ヴァロワ家はユグノー戦争で戦う余力は亡くなっていた。オスマン帝国とはレヴァントの海戦に勝利し、南イタリアを防衛した。アジア交易を独占していたポルトガルを併合。太陽の沈まぬ国となった。

 これらの問題を解決する簡単な方法があった。エリザベス1世フェリペ2世の結婚である。しかし、イギリス議会はこれを許さなかった。それは、ブラッディ・メアリの時代に戻りたくなかったからである。また、フランス・スコットランドと和睦が結べているのでスペインとの戦争に集中できる体制は整っていた。そのため、エリザベス1世とフェリペ1世の結婚は行われなかった。

 これにより、スペインはイングランドへ戦争へ踏み切った。当時のスペインは、ポトシ銀山の金を使って最強の海軍を整えていた。イングランドはスペインの支配下に入るのも時間の問題であった。しかし、それを救った英雄がいた。謎の役職イギリス国王公認海賊ドレークである。ドレークは、アルマダの海戦でスペインの無敵海軍を破り、イングランド滅亡の危機から救われた。

 ただ、16世紀のアルマダ海戦は海賊行為、18世紀のジェンキンスの耳戦争では黒人奴隷の密貿易、19世紀のアヘン戦争は麻薬の密貿易が原因である。これを考えると戦争はいけないことだと痛感いたします。

大英帝国への道のスタート

 イングランドは、アルマダの海戦でスペインに勝利すると海外へ飛び出していった。アメリカでは、東海岸南部にヴァージニア植民地を建設。アジアでは、中東のサファヴィー朝イランを支援。アッバース1世の全盛期を演出した。17世紀に入ると、東インド会社を設立。徳川家康に大砲を送るなど江戸幕府を積極的に支援していた。

エリザベス1世、君臨すれども統治せず

 エリザベス1世の時代、絶対王政の絶頂期を迎えた。しかし、この絶対王政は他の国の絶対王政と異なっていた。イングランド国民が自らの手でイングランドを守ろうとしたのである。絶対王政は、他の貴族に負けない常備軍と広大な地域から税金を集めるための官僚機構を必要とした。そのため、常備軍と官僚機構の維持のため莫大な資金を必要とした。

 しかし、エリザベス1世はそれをしなかった。この絶対王政エリザベス1世が望んでやったことではなかったからである。イングランド国民がメアリ1世時代のカトリック強制やスペインの半植民地を嫌っていたからである。スチュアート=メアリの反乱ではジェントリーなどの農民が常備軍の代わりに鎮圧にあたった。スペインとの戦争は、普段海賊行為を行っているドレークが常備軍の代わりに戦った。官僚機構や法案の作成は新興地主ジェントリーが行った。

 エリザベス女王は、君臨すれども統治せずを実施していたことになる。

シェイクスピアの時代

 エリザベスの時代に、イギリス版ルネサンスが成立した。その中心は、劇作家シェイクスピアである。シェイクスピアは、『ハムレット』などの四大悲劇などの広大にも残る作品を次々作成した。このほかにも、チョーサーの『カンタベリ物語』、トマス=モアの『ユートピア』もこの時代に書かれた。

その後のイングランド

 17世紀のイングランドは、イギリス革命へと向かっていく。前述のとおり、エリザベス女王が亡くなるとスコットランドから国王を迎えた。スコットランド国王は王権を強化しようと動いた。これに、それまでイングランドを仕切っていたジェントリーが反発。この対立はやがてイギリス革命へとつながる。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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