1810年代のドイツ ナポレオン戦争に勝利

 19世紀初頭のヨーロッパは、ナポレオン戦争の真っただ中にあった。1815年にナポレオン戦争が終結。オーストリアのメッテルニヒ外相を中心としたウィーン体制が構築された。

ブルシェンシャフト運動

 17年、宗教改革300年の式典が行われた。この式典にはドイツ連邦各地から人が集まっていた。この式典をきっかけに自由とドイツ統一を求める運動が起きた。これがブルシェンシャフト運動である。この運動に参加したのがドイツ連邦各地の学生たちであった。彼らは、ナポレオン戦争では義勇軍として参加。この戦争でドイツの統一の重要性を痛感した。この運動によって一部の学生は暴徒化した。

 19年、ドイツ連邦議会はブルシェンシャフト運動の弾圧を決議。オーストリアのメッテルニヒらによって鎮圧された。

 現在のドイツの国旗は、ブルシェンシャフト運動に疲れわれた三色旗である。 

ウィーン会議

ウィーン会議とは

 14年、ナポレオン戦争が終結すると、オーストリアのウィーンで講和会議が開催された。これがウィーン会議である。議長はオーストリアの外相であるメッテルニヒが務めた。

 ウィーン会議は、19世紀三大講和会議の一つである。

開催年 戦争議長
ウィーン会議1815ナポレオン戦争メッテルニヒ
パリ会議1856クリミア戦争ナポレオン三世
ベルリン会議1878露土戦争ビスマルク

 この会議の基本理念は、「正統主義」とされた。具体的には、原則としてフランス革命以前の状態に戻すことが決められた。

 この会議は、ほとんど進まなかった。そのために「会議は踊る。されど進まず」と揶揄された。主にもめたのは3つの点である。ザクセン帰属問題。旧神聖ローマ帝国の問題。ポーランド問題である。

 15年2月、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けると、会議は中断。6月のワーテルローの戦いでナポレオン軍に勝利すると、同じ月にウィーン議定書が締結された。

神聖同盟と四国同盟

 ウィーン体制を維持するために2つの軍事同盟が締結された。神聖同盟と四国同盟である。

 神聖同盟とは、ロシアの提唱で締結された同盟である。ウィーン会議に参加した国の大部分が参加した同盟で現在の国際連合に当たる組織である。

 しかし、宗教的観点からローマ教皇とオスマン帝国は参加しなかった。ローマ教皇は、宗教のトップであると同時に分裂状態にあったイタリアにおいて、中部イタリアを治める国王の立場でもあった。しかし、神聖同盟に参加することは東方正教会の軍門に下ることを意味する。そのため、神聖同盟に参加することはできなかった。

 四国同盟は、イギリスの提唱で締結された大国のみの同盟であった。強国として選ばれたのは、イギリス、ロシア、オーストリア、そしてプロイセンであった。プロイセンはこの同盟によって名目上もヨーロッパの大国として認識された。

オーストリアの領土

 オーストリアは、ポーランドとベルギーを放棄し、北イタリアの統治権を獲得した。

 ポーランドは、18世紀後半にポーランド分割で、ロシア、プロイセン、オーストリアによって文化ㇽされた。しかし、ナポレオン戦争時にナポレオンの支援でワルシャワ大公国として復活していた。ウィーン会議では、ワルシャワ大公国はポーランド立憲王国として存続が認められた。しかし、国王はロシア皇帝アレキサンドル1世がつとめることになった。

 ベルギーは、オランダに併合された。ベルギーはネーデルランド南部でカトリック教徒が多く住んでいた。そのためオランダ併合後はオランダと宗教面で対立した。ベルギーは30年にオランダから独立した。

 ウィーン会議で獲得した北イタリアをめぐり、オーストリアはイタリアと対立するようになる。

プロイセンの領土

 プロイセンは、ポーランド分割で獲得した大部分の地域をポーランド(ロシア)へ返還した。代わりにザクセンの北半分とラインラントを獲得した。

 ザクセンは、旧神聖ローマ帝国の有力諸侯国の一つである。ドイツ南東部を治めていた。

 ラインラントは、ライン川沿岸地域を指す。ドイツ西部の地域である。ドイツ北東部にあるプロイセンにとっては飛び地になる地域である。しかし、産業革命で価格が高騰した石炭が取れるため、プロイセンはこの地を要求した。ドイツは、ラインラント地域の地下資源を利用して40年代の産業革命を達成する。

ドイツ連邦の結成

 一方、18世紀のドイツは、小国に分裂していた。これらの国はオーストリア皇帝を神聖ローマ皇帝とした神聖ローマ帝国を結成していた。しかし、これは名目的な存在に過ぎなかった。ナポレオン戦争時には、神聖ローマ帝国は解体されライン同盟が結成された。

 ウィーン会議では、ライン同盟が否定された一方で、神聖ローマ帝国の復活も認められなかった。

 代わりに成立したのがドイツ連邦である。ドイル連邦は、オーストリア、プロイセン、ザクセン、バイエルン、ハノーファーなど旧神聖ローマ帝国の諸侯とフランスなどの自由都市で構成。議長は、オーストリア皇帝が務め、議会は自由都市のフランクフルトに置かれた。

ナポレオン戦争に勝利

 18世紀初頭のヨーロッパは、ナポレオン戦争の真っただ中にあった。ナポレオン軍は、ヨーロッパの大部分を支配した。しかし、12年に転換点を迎えた。ロシア遠征である。ナポレオン軍はロシア遠征に大敗。ナポレオンは12年12月に多くの兵を失って、パリへ帰還した。

翌13年に起きたのが、ライプツィヒ戦争である。ナポレオン軍は再び東へ進軍した。戦場はドイツ東部のライプツィヒであった。ナポレオン(フランス)とライン同盟連合軍19万人対プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデン25万人の戦いとなった。プロイセンには多くの学生が義勇軍として参加した。

 プロイセンなどの四か国連合軍は、圧倒な兵力差とライン同盟の一部離脱でナポレオン軍を撃退した。翌14年にパリへ入城した。

 

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