普仏戦争 vsナポレオン3世
1860年代のフランス
フランスは2月革命(48年革命)で七月王政が倒れ、共和制を経て、国民投票でナポレオン3世がフランス皇帝に即位した。
50年代、皇帝ナポレオン3世は、イギリスのパーマストンと良好な関係を保ちながら、クリミア戦争やアヘン戦争の勝利で人気を高めていた。
背景 南ドイツをめぐる争い
一方、プロイセンは普墺戦争に勝利して、北ドイツ連邦を結成した。ただ、この時バイエルンなどの南ドイツはどこの国にも所属していなかった。フランス皇帝ナポレオン3世はこの地に強い関心を持っていた。
きっかけ エムス電報事件
普仏戦争のきっかけは、スペイン王位継承問題であった。68年、スペイン王室が空位になった。ドイツの宰相ビスマルクは、プロイセン王室の親戚筋をスペイン王に推薦した。
これに待ったをかけたのが、フランス皇帝ナポレオン3世である。プロイセンの親戚筋がスペイン王に就任した場合、フランスは両国から挟み撃ちにされる可能性があるためである。70年7月、フランス皇帝ナポレオン3世は、フランス大使をプロイセン王ヴィルヘルム1世へ派遣。プロイセン王ヴィルヘルム1世とフランス大使の会談により、平和裏にこの話は無くなった。
この会談の内容は、電報でベルリンのビスマルクに伝えられた。しかし、ビスマルクはこの会談の内容を改ざんして発表。フランス世論とドイツ世論は激昂。これにより、普仏戦争は始まった。この事件はエムス電報事件と呼ばれている。
ナポレオン3世の投降
普仏戦争では、北ドイツ連邦だけでなく、バイエルンなどの南ドイツの諸侯たちもプロイセン軍として参戦した。70年9月のスダンの戦いで、ナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜となった。
この戦争の結果は、すぐにパリに伝わった。この知らせによってパリ市民は暴動。宮廷へ乱入し、第二帝政は崩壊した。翌71年1月プロイセン軍がヴェルサイユ宮殿を占領。3月にはパリへ入城した。
このころ他の国々は
68年、イギリスは自由党グラッドストン内閣が成立。パーマストンの後継者として戦争回避に動いたが失敗。普仏戦争では不介入の立場をとった。
同じ頃、クリミア戦争に敗北したロシアのアレクサンドル2世は南下政策を再開した。これが70年代の露土戦争へつながる。
イタリアは、ローマ教皇領に派兵されていたフランス軍が撤退。これによりイタリアはローマ教皇領を占領。イタリア統一が完成した。
東アジアの日本では、68年に大政奉還で明治新政府が成立。徳川幕府の後ろについているナポレオン3世が動けないとみると、戊辰戦争へ踏み切った。
戦争後 ドイツ帝国の建国
普仏戦争が終結。71年1月、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝の戴冠式を実施。これにより、ドイツ帝国が成立した。フランスの皇帝がいなくなり、ドイツ皇帝が誕生した瞬間であった。
ドイツ帝国は、フランス臨時政府から多額の賠償金とアルザスロレーヌを獲得した。アルザスロレーヌは、石炭や鉄鋼が取れる地下資源が豊富の地域である。この地域の獲得でドイツ帝国の工業化は急速に進んだ。一方で、この後アルザスロレーヌはドイツフランス間の重要な係争地になる。ちなみにアルザスロレーヌは第一次世界大戦期にフランスへ返還される。
一方、フランスの混乱は続いた。3月には、労働者政権がパリを占領。パリ=コミューンである。5月、パリ=コミューンは崩壊。第三共和制へ移行した。
普墺戦争
オーストリアとは
オーストリアは、現在も続くウィーンを首都とした中欧の内陸国である。15世紀から17世紀にかけて神聖ローマ皇帝を輩出し続けた名門ハプスブルク家が治める国である。
ドイツの統一の主導権をめぐり、No1のオーストリア帝国とNo2のプロイセン王国が対立していた。
普墺戦争
プロイセンとオーストリアはデンマーク戦争で獲得した領土をめぐり対立。66年7月普墺戦争が勃発。7週間でプロイセンの勝利で終わった。
戦後処理 北ドイツ連邦の結成
普墺戦争の結果、オーストリアを中心としたドイツ連邦(ウィーン議定書で成立)が解体。新たにプロイセンを中心とした北ドイツ連邦が結成された。
プロイセンは、オーストリアから領土を獲得するとともに、ハノーヴァー(イギリス王室の出身地)やフランクフルトなどを併合した。
イタリア王国は、この時プロイセンを支援した。戦争の結果、オーストリアからヴェネツィアを獲得した。
オーストリア=ハンガリー帝国
ドイツ連邦を失ったオーストリア帝国は、異民族の抵抗にあらがう余裕は亡くなった。そのため、妥協策を提示した。異民族のハンガリーに一定の自治権を与えた。これが、オーストリア=ハンガリー帝国の始まりである。
デンマーク戦争
デンマーク戦争とは
デンマーク戦争とは、64年に起きたプロイセン・オーストリア連合軍と北欧デンマーク軍との戦争である。この戦争で、プロイセン・オーストリアはユトランド半島南部を獲得した。
きっかけはドイツ系住民の反乱
前63年にデンマーク領であるユトランド半島南部のドイツ系住民が反乱。ドイツ住民はキールに臨時政府を樹立した。ちなみに、ドイツ帝国崩壊のきっかけとなったのは、キール軍港の水兵の反乱であった。
ドイツの世論は、キール臨時政府に即時援軍を送るべきとなった。しかし、宰相ビスマルクはすぐに援軍を送らなかった。それは52年の第1次デンマーク戦争にあった。この戦争で、プロイセンは、イギリスとロシアの干渉を受けてデンマークからの撤兵を余儀なくンされた経緯があった。そのため、イギリス・ロシアへの根回しで時間がとられた。
デンマークとは
デンマークは、現在では北欧の小国である。首都をコペンハーゲンにおくユトランド半島北部の国である。
9世紀にノルマン人の一派、デーン人が建国。11世紀には、クヌートがイングランドでクヌート朝を建国。15世紀には、カルマル同盟の盟主として北欧全域を支配した。
ビスマルク宰相
62年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ビスマルクを首相に指名した。プロイセンは、軍事費増大の予算を議会に提出。議会は紛糾した。ビスマルクは、ドイツの統一は鉄と血によってのみ解決されると演説した。この演説は鉄血演説と呼ばれている。