1980年代後半の ドイツ ベルリンの壁崩壊

激動の80年代

 1980年代後半は、激動の時代であった。中国(東アジア)では、天安門事件が勃発。中東では、イランイラク戦争が終結し、湾岸戦争が勃発した。そして、最も大きな出来事は、東西冷戦の終結である。

 ヨーロッパも例外ではなかった。東欧革命の時代であった。その最も象徴的な出来事がベルリンの壁崩壊である。今回はベル理の壁崩壊前後のドイツをさかのぼり形式で見ていきます。

ドイツの地理

 ドイツ、オーストリアやチェコは、ヨーロッパのど真ん中にア当たる。そのため、第2次世界大戦後のドイツは、アメリカ陣営の西ドイツとソ連陣営の東ドイツに分かれた。一方、オーストリアは、アメリカとソ連の取り決めで、どちらの陣営にも属さない中立国となった。そして、チェコスロバキアはヨーロッパで最も西にあるソ連陣営の国となった。

統一ドイツの実現

 90年8月、東ドイツ人民会議は、西ドイツへの合流を決議。同90年10月、西ドイツが東ドイツを吸収する形で統一ドイツが実現した。首相は、西ドイツのコール首相が統一ドイツの首相になった。首都は、東ドイツのベルリンとした。ただ、経済の中心は西ドイツの都市にあった。

ベルリンの壁崩壊

 ドイツ統一のきっかけになったのは、まぎれもなく前年の89年11月に起きたベルリンの壁崩壊である。

 89年11月、民主化を求める大規模なデモが行われた。これを受けて東ドイツ人民会議は11月9日に西ベルリンに旅行へ行ける法律を制定した。

 この法律は、ただビザを取得して西ベルリンへ行けるだけのもので、ベルリンの国境がなくなる法律ではなかった。しかし、この法律が発表されると、東ベルリンの人々はベルリンの壁を壊し始めた。軍隊も法律の内容を把握していないため鎮圧には向かわなかった。そのため、合法的にベルリンの壁が崩壊したような映像が全世界へ流れた。そして、一夜にしてベルリンの壁は崩壊した。

 これにより、東ドイツは西ドイツへの合併の道を進めざるを得なくなり、90年10月の東西ドイツ統一となった。

報道官の勘違いでベルリンの壁崩壊?

 東ドイツ政府は、西ベルリンへの渡航許可を大々的に発表するつもりはなかった。しかし、当時の報道官は大々的に世界へ発表してしまった。また、報道官は法律の内容を詳しく把握していなかった。そのため、法律施行まである程度の猶予期間があったのだが、記者が施行時期を訪ねると、報道官は「直ちに」と回答した。

 これは、Wikipediaなどでは東ドイツのお粗末な対応として語られている。しかし、長年、独裁を維持してきた東ドイツ政府がこのようなミスを犯すとは思えない。これは東ドイツを民主化させたい一部の政府関係者の陰謀のように思えるのは私だけだろうか。

ベルリンの壁とは

 ベルリンの壁は、東ドイツと西ドイツの国境にあるとよく勘違いされるがそうではない。ベルリンに西ベルリンという西ドイツの飛び地がある。ベルリンの壁は、この西ベルリンを囲むように作られた。ベルリンの壁は61年に建設された。

ハンガリーの民主化

 では、なぜ東ドイツ政府は西ベルリンへの渡航許可を出す法律を出したのだろうか。

 それは、すでに東ドイツから西ドイツへの移住が始まっていたからである。その要因が東欧ハンガリーである。

 ハンガリーは、東欧の中央部にある内陸国である。東欧でも西側にあり、オーストリアと国境を接している。

 このハンガリーは、89年1月に民主化(共産党以外の政党を容認)を実現。さらに5月にはオーストリアとの国境を解放した。これにより、東欧諸国の人々はハンガリーへ向い始めた。

東欧革命

 89年は、東欧革命の年である。ハンガリーの民主化やベルリンの壁崩壊はその一部にである。

 東欧革命の発端は、88年3月の新ベオグラード宣言である。新ベオグラード宣言とは、ソ連のゴルバチョフ書記長がユーゴスラヴィアを訪問。ユーゴスラヴィアとの関係を改善したときに発表したものである。その内容は、従来の制限主権論を否定したものである。

 制限主権論は、社会主義の実現のためには、各国の主権は制限されてもやむを得ないという考え方である。すなわち、ソ連は、東欧諸国の政治に干渉ができるということである。

 東欧革命は、89年1月のハンガリーの民主化を皮切りに東欧諸国全域に広がった。

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