前回の復習 10世紀のイタリア
10世紀のイタリアのテーマは、オットー1世の戴冠である。10世紀のイタリアは、イタリア=カロリング朝の断絶で王を失っていた。そこに入ったのがドイツ王オットー1世である。これにより、教皇と皇帝の二重権力体制が確立。11世紀の叙任権闘争の時代へつながる。
今回も、テーマはイタリア=カロリング朝である。
イタリア=カロリング家の断絶
カロリング朝は、8世紀のピピンの寄進で成立したフランク王国の王朝である。当時のフランク王国は、ドイツ・フランス・北イタリアにまたがる大帝国であった。しかし、9世紀に分割相続でフランク王国は分裂。現在のフランス、ドイツ、イタリアに分割される。それぞれの国で、カロリング朝が続いていた。
85年、西フランク王カール3世が再びフランク王国を再統一。しかし、87年に東フランク王(ドイツ王)によって廃位された。以後、イタリアではカロリング家の影響力が低下した。北イタリアでは有力諸侯がイタリア王になろうとして互いに争った。
この争いは10世紀まで続いた。そしてこの争いを治め、イタリア王になったのが東フランク王オットー1世である。
内戦が続く北イタリアでは、城壁都市が各地に建設された。これがのちの都市共和国になっていく。
シャルル2世
シャルル2世は、カール大帝の孫である。
43年のヴェルダン条約で、西フランク王国(後のフランス)の王になり、フランス=カロリング家を開く。
70年のメルセン条約で領土を東に拡大。
75年、ローマ皇帝ロドヴィコ2世が亡くなると、ローマ皇帝の地位を継承した。
76年、東フランク王(ドイツ王)ルートヴィヒ2世が亡くなると、東フランクへ侵攻。しかし、失敗に終わる。77年、シャルル2世は亡くなった。
メルセン条約
50年、中部フランク王でローマ皇帝のロータル1世が死去。
長男のロドヴィコ2世が、イタリアとローマ皇帝の地位を継承。アルプス山脈以北は弟2人に相続させた。
ロドヴィコ2世は、イタリア=カロリング朝につながる。
一方、2人の弟が亡くなると、西フランク(フランス)と東フランク(ドイツ)で領土争奪戦が起こる。70年のメルセン条約で終結する。アルプス以北の中部フランク領は、東フランクと西フランクに分割された。
ヴェルダン条約
14年、カール大帝が崩御。息子(カール2世)に引き継がれた。そして孫世代になり、兄弟で後継者争いが起こった。そこで結ばれたのが43年のヴェルダン条約である。
長男のロータル1世は、中部フランクとローマ皇帝の地位を相続した。中部フランクには、イタリアやフランク王国の都アーヘンが含まれた。
次男のルートヴィヒ2世は、東フランク王国を相続。のちのドイツになる国である。
三男のシャルル2世は、西フランク王国を相続。のちのフランスになる国である。
イスラム教とのシチリア島占領
シチリア島は、南イタリアにある島で、イタリアで有数の穀倉地帯である。
27年、シチリア島に北アフリカのアグラブ朝が侵攻。アグラブ朝はイスラム教の王朝でアッバース朝の支配下にあった。ここから、11世紀の両シチリア王国成立まで、シチリア島はイスラム勢力下に入る。
それまで、南イタリアは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であった。半島部はその後であった。
9世紀のイタリアの勢力図
ここで、9世紀のイタリアの勢力図を見ていこう。
- 北イタリア→フランク王国(後の中部フランク)
- 中部イタリア→ローマ教皇領
- 南イタリアの半島部→ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
- シチリア島(南イタリア)→イスラム勢力
カール大帝の時代
800年、戴冠式でカール大帝がローマ皇帝になった。
カールは、あくまでドイツ語での表記である。フランス語ではシャルルであり、スペイン語ではカルロス、英語ではチャールズになる。これらの名前は後の各国の王の名前につながる。
14年、カール大帝は首都アーヘンで崩御。カール大帝には3人の息子がいた。当初は3人に分割統治させる予定であった。しかし、2人の兄は早くなくなり、末っ子のルートヴィヒがローマ皇帝の地位とフランク王国全土を継承した。
なお、アーヘンは温泉が有名で、カール大帝もアーヘンの温泉で傷を癒した。また、ここにはカール大帝が建て他アーヘン大聖堂がある。