前回の復習 13世紀のイタリア
13世紀のテーマは3つ、十字軍、モンゴル、そしてシチリアの晩鐘である。11世紀に始まった十字軍は、アッコンの陥落で終結した。モンゴル帝国は、この時代最大の帝国である。ローマ教皇は、モンゴル帝国の使者を送った。そして、南イタリアでは住民反乱であるシチリアの晩鐘が起こる。
今回は、中世最強の皇帝であるフリードリヒ1世と最強のローマ教皇インノケンティウス3世を見ていきます。
インノケンティウス3世
教皇は太陽、皇帝は月
89年の第3回十字軍で、最強の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が事故死。これにより、ローマ教皇の権威がが高まった。
インノケンティウス3世は98年に即位した。
13世紀初頭には、ローマ教皇の絶対的な権力を目にする。独仏英の3人の君主を破門にし、国王を意のままにした。
神聖ローマ帝国では、王位継承に介入。新国王を破門にし、強硬に近い皇帝を即位させた。これが若きフリードリヒ2世である。
フランスでは、離婚問題でフィリップ2世を破門にし、再婚をあきらめさせた。
イギリスでは、叙任権問題で失地王ジョン王を破門。この事件で、ジョン王は貴族の信頼を失い、マグナカルタを押し付けられる。
オールスター戦の第3回十字軍
87年、イェルサレムがサラディンによって征服される。ローマ教皇は89年第3回十字軍を組織した。この十字軍には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス国王フィリップ2世とイングランド国王リチャード1世が参加した。
イェルサレムの道中、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は事故死。神聖ローマ帝国軍は撤退した。フランス国王フィリップ2世も撤退。イングランドの単独出兵の形になった。
イングランド国王は、イェルサレムを奪還することができず、アッコンを回復し、サラディンと講和条約を結んで帰国した。
教皇 vs 皇帝
フリードリヒ1世(バルバロッサ)
38年、神聖ローマ帝国でシュタウフェン朝が成立。55年、フリードリヒ1世が即位。シュタウフェン朝は全盛期を迎えた。
ロンバルディア同盟
11世紀半ばから北イタリアには自治都市(コムーネ)が形成された。その中心は北イタリア中央部のミラノであった。
12世紀に神聖ローマ帝国(ドイツ)にシュタウフェン朝が成立。この頃から、神聖ローマ帝国の侵攻が激しくなった。58年にフリードリヒ1世が即位。
皇帝フリードリヒ1世は、北イタリアへ侵攻した。イタリア政策である。
62年、ミラノが破壊された。67年、北イタリアの諸都市は反皇帝のロンバルディア同盟を結成。76年に、神聖ローマ帝国軍を撃退。83年、皇帝フリードリヒ1世は、ロンバルディア同盟の諸都市の自治を容認した。
南イタリア
38年、神聖ローマ帝国ではシュタウフェン朝が成立。
52年、フリードリヒ1世がドイツ皇帝に。54年、イタリア遠征を実施。55年に戴冠。神聖ローマ皇帝になる。フリードリヒ1世は、イタリア征服を計画としていた。その一環で、息子の嫁にシチリア王の一人娘を迎えた。
89年にノルマン朝が断絶。フリードリヒ1世は、自分の息子を両シチリア国の王とした。両シチリア王国でもシュタウフェン朝が成立した。これを継いだのがフリードリヒ2世である。
第2回十字軍
47年、トルコのザンギー朝が再びイェルサレムを占領。第2回十字軍が結成された。これを率いたのは、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世(シュタウフェン朝の初代王)である。
第2回十字軍は失敗に終わった。
学園都市 ボローニャ
北イタリアにはボローニャ大学が成立。大学を中心とした共和国が成立した。
当時、南イタリアには医学の専門大学サレルノ大学が成立した。
両シチリア王国の建国
12世紀ルネサンスと国際都市パレルモ
シチリア島でノルマン朝が成立すると、首都パレルモではアラブ人やノルマン人が闊歩する国際色豊かな都市になった。
このパレルモでは、アラビア語書物の翻訳が行われた。大翻訳時代である。イスラム文化とヨーロッパ文化が交流。12世紀ルネサンスが成立した。
ノルマン朝時代の両シチリア王国
30年、ルッジェーロ2世が、シチリア王国を建国。40年に南イタリアを征服。この頃から両シチリア王国をいわれる。
その後、北アフリカのチュニジアを征服。47年の第2回十字軍にも参加した。
58年ルッジェーロ2世が死去。新国王が即位すると貴族らの反乱が発生。翌59年、北アフリカがイスラム勢力のムワッヒド朝の支配下に入る。
両シチリア王国の建国
ノルマンディー公国は、11世紀ごろから地中海に進出するようになった。
30年、シチリア島を占領。シチリア王になった。40年、南イタリアにナポリ王国を建国。ここに両シチリア王国が建国された。
11世紀の南イタリア
11世紀、シチリア島はアラブ人(イスラム教徒)の支配下にあった。
一方、南イタリアは荘園領主が自治権をもっていた。ローマ教皇とドイツ国王は互いにこの地域の支配を主張した。