13世紀のイタリア シチリアの晩鐘

前回の復習 14世紀のイタリア

 14世紀、イタリアは多くの国に分かれていた。これらの国は2つの派閥に分かれていた。教皇派と皇帝派である。これは、皇帝フリードリヒ2世が即位すると全盛期を迎えた。

シチリアの晩鐘

シチリアの晩鐘後の南イタリア

 シチリアの晩鐘事件の後、シチリアの人々はアラゴン王をシチリアの王として迎えた。

 その後、アラゴン王(後のスペイン)がシチリア王位を継承した。一方、アンジュー家(フランス貴族)は、ナポリ王位を継承した。

シチリアの晩鐘

 アンジュー家は、十字軍の戦費調達のためにシチリアへ課税しようとしていた。

 82年3月、シチリアで暴動。アラゴン王が援軍をおくり、アンジュー家はシチリアから撤退した。

アンジュー家と両シチリア王国

 50年、皇帝フリードリヒ2世が死去。54年、シュタウフェン朝は断絶。神聖ローマ帝国は大空位時代に入る。

 ローマ教皇は、十字軍で良好な関係であったフランス国王ルイ9世に要請。フランスは南イタリアを征服。アンジュー家が両シチリア王国を継承した。

 シチリア島に多くのイスラム教徒が住んでいた。フリードリヒ2世は宗教に寛容であったためその統治は良好であった。しかし、アンジュー家はそうではなかった。

教皇 vs 皇帝

 12世紀前半、新ローマ帝国でシュタウフェン朝が成立。12世紀後半に全盛期を迎える。皇帝フリードリヒ1世の即位である。

 皇帝フリードリヒ1世は、ノルマン朝のシチリア王女と結婚。フリードリヒ2世を生む。これにより、ローマ教皇は北イタリアの神聖ローマ帝国と南イタリアの両シチリア王国に挟まれることになった。

失地王ジョン王

 13世紀初頭、第3回十字軍が起こる。フランス国王フィリップ2世とイングランド国王リチャード1世も参加した。しかし、フィリップ2世は早々に帰国。リチャード1世が留守のうちにフランス国内のイングランド領へ侵攻した。

 その後、失地王ジョン王が即位。フィリップ2世に敗北。アンジュー伯領などをフランスへ譲った。アンジュー伯は、ルイ9世の弟が継承した。

アンジュー家

 アンジュー家は、フランス西部の貴族である。12世紀半ばにイングランド王位を継承。アンジュー帝国を開く。

十字軍

アナーニ事件へ

 85年、フランス国王にフィリップ4世が即位。

 91年、アッコンが陥落。94年、ローマ教皇にボニファティウス8世が即位。フランス国王フィリップ4世に十字軍を要請。しかし、フィリップ4世はこれを拒否。

 その後、聖職者課税問題でフランス国王とローマ教皇がたいりつ。14世紀のアナーニ事件につながる。

第七回十字軍 ルイ9世病死

 70年、フランス国王ルイ9世は、再びエジプトのマムルーク朝へ侵攻。まずはチュニジアへ侵攻した。しかし、ここで感染症のチフスにかかり死亡。十字軍は終了した。

 この翌年、マルコポーロが東方に旅立った。

第六回十字軍

 41年、フランスルイ9世が編成して第6回十字軍を編成。アイユーブ朝へ侵攻した。しかし、ルイ9世は捕虜になる。

 50年、クーデターでアイユーブ朝が滅亡。マムルーク朝が成立。ルイ9世は身代金を払って釈放された。

第五回十字軍

 28年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が起こした十字軍。外交交渉で無血でイェルサレムを奪回した。

第四回十字軍

 第3回十字軍で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が死亡。ローマ教皇のインノケンティウス3世は絶対的な権力を握った。

 02年、インノケンティウス3世は北フランスの諸侯を集めて第四回十字軍を編成した。この十字軍から地中海から侵攻するようになった。

 最初ジェノヴァに要請をしたが、貿易相手のアイユーブ朝への配慮のためこれを拒否した。孫為、ヴェネツィアに支援求めた。ヴェネツィアは船を提供した。しかし、その船はイェルサレムではなくコンスタンティノーブルへ向った。

 第四次十字軍は、なぜか、ビザンツ帝国のコンスタンチノーブルを占領。ラテン帝国を建国した。

モンゴルの世紀

モンゴルの時代

 13世紀はモンゴルの時代である。13世紀初頭にチンギスハンがモンゴルのハンに。モンゴルはユーラシア大陸の大部分を支配する大帝国を築いた。

マルコ=ポーロ

 マルコ=ポーロは、ヴェネツィアの商人の家に生まれる。

 70年、第7回十字軍でルイ9世が死亡。翌71年、マルコ=ポーロ氏は父についてモンゴルへ向かう。75年、元の都である大都に到着。マルコ=ポーロは父とわかれ、フビライ=ハンに使える。

 92年、イル=ハン国に嫁ぐにフビライの娘の警護について、帰国。95年に帰国。その後ジェノヴァとの戦争で捕虜に。獄中での会話が東方見聞録としてまとめられた。

プラノ=カルパニ

 41年、ワールシュタットの戦いでジュチのモンゴル軍がワールシュタットの戦いで神聖ローマ帝国を中心としたヨーロッパ連合軍に敗北。

 ローマ教皇インノケンティウス4世は、モンゴルへ使者を派遣。その使者が修道士プラノ=カルパニである。プラノ=カルパニは第3代ハンのグユウ=ハンの即位式に列席。

モンゴルの侵攻

 モンゴルとヨーロッパの最初の接触は、ジュチのヨーロッパ遠征である。34年、第2代のオゴタイが即位すると、ジュチのヨーロッパ遠征が行われた。

 56年、フラグが西アジアへ侵攻。58年にバグダードに入城。アッバース朝が滅亡した。

大学

ダンテとジョット

ローマ大学

ナポリ大学

VS ビザンツ帝国

プラトン=アカメディア