1890年代の イタリア エチオピア遠征失敗

前回の復習 1900年代のイタリア

 1900年代、ジョリッティ首相の下で、北部の工業化が進んだ。一方で、イタリア南部の農村では貧困が問題化。彼らは故郷を捨て、北部の工場の労働者になった。また、その一部は、新移民としてアメリカへ渡った。

 さて、1890年代のイタリアのテーマは、エチオピアの植民地化である。今回はこの話を中心に進めていきます。

1890年代のヨーロッパ

 1890年代は、現代の始まりとらえている。ここから2つの大戦と冷戦という総力戦が続く時代へ入った行く。

 そのきっかけは、ビスマルクの引退である。80年代のヨーロッパは、ビスマルクの協調外交によって一定の平和が保たれていた。その象徴がベルリン=コンゴ会議である。この会議で、植民地化に一定のルールを設けた。そのため、ヨーロッパの国同士が互いに争うことはなかった。

 しかし、90年にビスマルクが引退すると、ドイツ帝国は本格的に植民地獲得競争に参戦。ヨーロッパは、ドイツを中心とする三国同盟、フランスとロシアの露仏同盟、イギリスの栄光なる孤立の3つの陣営に分かれた。

エチオピア遠征失敗 

ジョリッティ内閣へ

 90年代まで、イタリアはクリスピ首相が政治を取り仕切っていた。しかし、エチオピア遠征の失敗で退陣。その後、力をつけてきたのがジョリッティ首相である。

 ジョリッティ首相は、北部の資本家出身の政治家である。クリスピ内閣では、大蔵大臣(財務大臣)として名声を挙げた。90年代、一度首相になるが汚職事件ですぐに退陣した。

 00年代に本格的なジョリッティ内閣が成立すると、北イタリアの工業化が大きく進んだ。

クリスピ首相、退陣

 90年代は、クリスピ首相の時代である。

 クリスピ首相は、南イタリア出身の政治家である。ガリバルディとともにシチリア遠征を行った。その後政治家に転身。80年代後半に首相になった。90年に大蔵大臣のジョリッティに政権を譲るも汚職事件を受けて再び復活した。

 クリスピ首相の政策はどのようなものであっただろうか。ジョリッティ首相との政策の違いから見ていこう。

 まずは内政である。19世紀後半のヨーロッパの政治政策は、社会主義者への対応である。71年に起きたパリコミューンは、ヨーロッパ各国の資本家を震え上がらせた。クリスピ首相は、徹底的に社会主義者の弾圧を行った。一方、ジョリッティ首相は、過激な社会主義者への弾圧は強めていったが、穏健派の意見は取り入れて労働者にやさしい政治を行った。

 次に外交である。クリスピ首相は、チュニジア問題からフランスを敵視。ドイツと組む三国同盟を強化させた。一方、ジョリッティ首相は、フランスと和解しリビアを獲得。第一次世界大戦では、イギリス陣営で参加し勝利した。

 最後にアフリカ植民地政策である。クリスピ首相は積極的に植民地獲得へ向った。エチオピア遠征もその一環である。一方、ジョリッティ首相は、植民地拡大よりも外交関係を重視した。

エチオピアに敗戦

 ヨーロッパ各国は、85年のベルリン=コンゴ会議をうけて植民地化を推進していった。イタリアもその例外ではなかった。

 89年、エチオピアで反皇帝派がクーデターを画策。イタリアは、皇帝側を武器提供で支援した。エチオピア皇帝は、エチオピアの保護国化と沿岸部エリトリアの割譲をイタリアに約束した。

 しかし、エチオピア皇帝はクーデターが収まると、93年に、イタリアとの約束を破った。イタリアは当然、エチオピアへ兵を進めた。これがアドワの戦いである。

 エチオピア皇帝には勝算があった。それはフランスの支援であった。エチオピアの沿岸部はスエズ運河の出口である紅海に面している。そのため、フランスやイギリスはこの地域を重要視していた。

 アドワの戦いは、96年、エチオピアの勝利で終わった。

 アドワの戦いは、アジアアフリカ諸国がヨーロッパ諸国に勝利した初めての戦争である。その9年後、日本が日露戦争でロシアに勝利することになる。

エチオピア

 エチオピアは、東アフリカ北部の国で、北は紅海に面している。

 エチオピア王国は、紀元前1世紀に建国。東方正教会のキリスト教を信仰していた。

 19世紀に入ると、エチオピアは小国に分裂した。1869年にスエズ運河が開通するとスエズ運河の出口に当たる紅海の重要性が高まった。これにより、エチオピア沿岸部の植民地化が始まった。進出したのが、イギリスとフランス、そしてイタリアであった。

 80年代に入ると隣国のスーダンでマフディの乱が発生。イスラム教国家が成立。スーダンはキリスト教国のエジプトへ侵攻していった。

 さらに、85年のアフリカ=コンゴ会議でアフリカの植民地化は加速化した。