前回の復習 1950年代のイタリア
50年代、イタリアは奇跡の復興を成し遂げた。これが60年のローマオリンピックにつながる。
さて、今回は、第二次世界大戦敗戦後のイタリアがアメリカ陣営に入っていく過程を見ていきます。
NATOに加盟
NATOに加盟
48年2月のチェコスロバキアのクーデターが発生。これをうけて、翌3月イギリスは、フランスとベネルクス3国で西ヨーロッパ条約機構(軍事同盟)を結成した。ソ連はベルリン封鎖を実施。冷戦が勃発した。
49年1月、ソ連はアメリカのマーシャルプラン(経済政策)に対抗するため、COMCON(経済政策)を結成した。49年4月、アメリカがNATOを結成。西ヨーロッパ条約機構などが参加した。
キリスト教民主主義は、NATOへの参加を決めた。これにより、イタリアはアメリカ陣営に入ることを決めた。
キリスト教民主主義の長期政権
47年、キリスト教民主主義のデ・ガスペリ首相は、訪米。2月の講和条約の賠償金の減額と経済支援をアメリカに求めた。アメリカはこれに応じた。47年5月、共産党などソ連陣営側の政党との連立を解消した。翌6月、アメリカはマーシャルプランを発表した。
48年2月、チェコスロバキアで共産党クーデターが発生。同48年4月の東西冷戦の最中、イタリアで総選挙が行われた。この選挙はアメリカ陣営の与党キリスト教民主主義とソ連陣営の野党の左派連合(共産党など)のガチンコ勝負となった。
与党キリスト教民主主義はこの選挙に勝利。80年代までキリスト教民主主義の長期政権が確立した。
パリ講和条約
46年8月、枢軸国と連合国でパリで講和会議が開催された。翌47年2月に調印された。
この時、インドシナ戦争の真っただ中であったため、アジア・太平洋地域については合意を得られなかった。こちらについては51年のサンフランシスコ講和会議で話し合われることになった。
また、ドイツ・オーストリアについては統治体制が確立できていないため、対象から外れた。
ここでは、バルカン諸国(ブルガリア・ハンガリー・ルーマニア)とフィンランド、イタリアが枢軸国側で調印した。
これにより、国境と賠償金の金額が確定した。しかし、トリエステについては国境を画定することができなかった。
また、イタリアはこの条約ですべての海外植民地をすべて放棄した。ソマリアはイギリスへ、リビアは、イギリスフランスの共同統治領となった。しかし、ソマリアは50年にイタリアの信託統治領となった。
王政の停止
王政の停止
デ・ガスペリ首相は、共産党などの配慮の観点から、46年6月王政停止の国民投票を実施。国民投票により王政は停止した。
イタリア共産党の躍進
46年の国民投票と並行して総選挙も実施された。ムッソリーに政権崩壊後の初の総選挙である。
第1党は、キリスト教民主主義になったものの、社会党と共産党が躍進。キリスト教民主主義は過半数をとることができなかった。
この選挙結果で、アメリカはソ連への警戒感を強めた。
挙国一致内閣
45年、パドリオ将軍が首相を辞任すると、デ・ガスペリ挙国一致内閣が成立した。デ・ガスペリは、ムッソリーニ政権の崩壊で復活したカトリック政党(キリスト教民主主義)の党首である。この時、副首相は共産党が務めた。
挙国一致内閣は47年まで続いた。
イタリアの重要な政治勢力はもう一つある。イタリア共産党である。イタリア共産党は第二次世界大戦期にユーゴスラビア共産党(バルチザン)とともにゲリラ活動を展開していた。