1950年代のイタリア 隣国ユーゴスラビア

前回の復習 1960年代のイタリア

70年代、ヨーロッパは低成長期に入った。ニクソンショックやドルショックで高度成長が終了した。ECは、イギリスの加盟をみとめた。さらにサミットが始まったのもこの時期である。

 さて、今回は、ECの成立過程を見ていきます。

奇跡の復興

ローマオリンピック

 日本は、50年代から60年代にかけて高度成長期を迎えていた。同じ頃、イタリアも高い成長力を維持していた。60年のローマオリンピックは復興の象徴である。

 それを支えたものが2つある。1つは、マーシャルプランなどのアメリカの支援である。2つ目は、フランス・西ドイツとの経済連合EECである。

EECとEURATOM

 57年3月、ローマ条約を締結。EEC(ヨーロッパ経済共同体)とEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)が結成された。

 参加国は、どちらもイタリアのほか、フランス、西ドイツとベネルクス3国が参加した。イギリスはこれには参加。

 EEC(ヨーロッパ経済共同体)では、関税の引き下げのほか、労働や資本の自由化、アフリカの植民地の共同管理が挙げられた。

 一方、EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)では、米ソに対抗できる原子力技術を得るために発足。原子力に関する共同研究を開始した。

ECSC

 ドイツ(西ドイツ)とフランスの間にはアルザス・ロレーヌ地方がある。この地域はフランク王国時代から長年両国の係争地になっていた。

 この地域で鉄鉱石や石炭が発掘されるようになると両国の争いはいっそうが激しくなった。それが2つの大戦まで拡大した。

 50年、フランスの外相シューマンはアルザスロレーヌの共同管理を提案。西ドイツはこれに合意した。この提案が発表された5月9日は現在ヨーロッパの日として祝われている。

 51年4月、フランス、西ドイツのほかイタリアとベネルクス3国が条約に調印。翌52年、ECSCは発足した。

ヨーロッパ統合の歴史

 ここで、あたらためて20世紀後半のヨーロッパ統合の歴史を見ていきましょう。

  • 52年 ECSC発足
  • 57年 EECとEURATOMが発足(ローマ条約)
  • 60年代後半、ECが成立
  • 70年代前半、イギリスがECに加盟
  • 90年代前半、EUの結成を決定(マーストリヒト条約)

イタリアの政治

キリスト教民主主義

 日本とイタリアは政治的類似性が大きい。日本は50年代から90年代にかけて、自由民主党が一貫して政権を担っていた。同様にイタリアも40年代から80年代にかけて、ある政党が政権を担っていた。その政党がキリスト教民主主義である。

 では、イタリアと日本は長期政権を維持できたのであろうか。私はその理由が3つあると考えている。

 一つ目は、高度成長である。両国は第二次世界大戦で焦土となったが、60年代にはオリンピックを開催できるほどの復興を成し遂げた。この経済成長によって国民の支持を集めた。一方で70年代の低成長期になると、汚職問題が表面化。一党独裁の政治体制は崩壊へ向い始めた。

 二つ目は、ファシズム体制の経験である。日本は高橋財政によって世界恐慌から脱却した。これにより強硬外交を進める体制が構築された。一方で、イタリアもムッソリーニによって政界恐慌から脱却した。そのため、両国は強いリーダーシップによる経済復興を内心では望んでいた。

 3つ目は、共産党の脅威である。日本もイタリアも強い居三島が存在している。さらに、日本は中国やソ連、イタリアにはユーゴスラビアという社会主義国が存在する。そのため、両国はほかの国に比べ共産党への危機意識が高い。

イタリア社会党

 日本と同様にイタリアにも社会党が存在する。両国は共産党を支持する左派と共産党と一線を画す右派に分裂した。日本では55年に右派と左派が合同し日本社会党が発足した。

 しかし、イタリアは統合されることはなかった。右派陣営は社会民主党を結成。対立は続いた。

イタリア共産党

 イタリアの重要な政治勢力はもう一つある。イタリア共産党である。イタリア共産党は第二次世界大戦期にユーゴスラビア共産党(バルチザン)とともにゲリラ活動を展開していた。

 第二次世界大戦終結後は、第二次世界大戦時のゲリラ活動と

国際連合へ復帰

 60年、イタリアの戦後復興の象徴としてローマオリンピックが開催された。ちなみに、その次の64年が東京オリンピックである。西ドイツで開催されたのは、そのさらに8年後の72年のミュンヘンオリンピックである。

 ローマオリンピックでは、エチオピアのアベベ選手がマラソン競技で優勝した。裸足で走ったことで有名になった。イタリアは1930年代後半にエチオピアを植民地にしていた。そのため、エチオピアの人々はかつての宗主国で勝利したことを喜んだ。

ユーゴスラビア

 トリエステは、アドリア海の北の国境の町である。この地は、この時代ユーゴスラヴィアとイタリアで国境問題が生じていた。47年の講和条約の際には、国境は未画定にされた。54年、国境が画定した。

 ユーゴスラヴィアは、第一次世界大戦後に成立したスラブ人国家である。第二次世界大戦時には、イタリアの支配下にあった。イタリア降伏後は、ドイツの支配下に入った。そこから独立を果たしたのは、ティトーを中心としたバルチザン(共産党)の影響が大きい。独立回復後は、ティトーを中心に社会主義国になった。

 48年、ユーゴスラヴィアはコミンフォルムを除名された。53年、スターリンが死去。翌54年にトリエステ問題が解決。55年、

 イタリア共産党

リビアの独立

 60年、世界史において最大の出来事はアフリカの年である。フランスのド・ゴール大統領はアフリカ6か国の独立を承認した。

 イタリアも、アフリカの年の影響を受けた。イタリアはイギリスとともに東アフリカのソマリアの独立を認めた。

 ソマリアは、東アフリカ北部にある国で紅海とインド洋に面した国である。紅海はスエズ運河の出口にあるため海上交通において重要な箇所である。そのため、ソマリアの重要性は今でも高い。独立前は、紅海沿岸の北部はイギリスが、インド洋沿岸の南部はイタリアが植民地にしていた。

 ソマリアは、90年代から2010年代まで内戦が起き、多くの戦争難民を出した。また無政府状態になったため多くの漁師が海賊となり紅海を通る船を襲った。