前回の復習 12世紀の日本
12世紀の日本は、平安時代末期。院政の時代。皇位継承問題で保元の乱、平治の乱が展開される。この2つの戦いにより、武士中心の時代へ向かっていく。平清盛政権が成立。平氏が滅亡すると、源頼朝が鎌倉幕府を開く。
11世紀の国際情勢
13世紀は、モンゴルの世紀である。
日本では、鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入っていく。
中国では、元王朝が中国から撤退。北元と呼ばれるようになる。明王朝が成立した。
流れ 摂関政治から院政へ
藤原道長
10世紀末、疫病が流行。道長の兄たちが疫病で死去。ここで生き残ったのが道長と道長のおいである伊周(これちか)であった。この2人の権力闘争が展開される。
95年、道長が内覧に就任。内覧は、摂政・関白の権限の一部で、天皇に渡す書類のチェック業務である。この権限により、天皇への情報コントロールによって、大きな権力となった。
同95年、花山院乱闘事件(長徳の変)で伊周が失脚。伊周の姉で一条天皇の中宮(天皇の皇后以外の正妻)である定子も出家した。
00年、定子の道長として、道長の娘である彰子が一条天皇の中宮となった。
中宮は、皇太子を生むために天皇と関係をもつ戦いが行われた。そのため、天皇に頻繁にきてもらうために、楽しませるサロンを形成し、歌がうまいものを集めた。定子のサロンには、『枕草子』の作者である清少納言がいた。彰子のサロンに入ったのは、『源氏物語』の作者である紫式部がいた。
16年、後一条天皇が即位。道長は外祖父になる。これに伴い、道長は摂政になる。
翌17年、道長は太政大臣に就任。頼通が摂政を引き継ぐ。
18年、道長、太政大臣を辞任。翌19年、出家する。これにより、表の実権は息子の頼通に任せ、道長は影の実力者になった。
道長が出家した19年、福岡(筑前)で大事件が起こる。刀伊の入寇である。刀伊の入寇とは外国人(女真人)による北九州襲撃事件である。これを解決したのがたまたま大宰府にいた藤原隆家(中関白家・伊周の弟)であった。
22年、法成寺が完成。これにより、「御堂関白」と呼ばれるようになる。ちなみに、道長は関白に就任していない。道長の日記は、『御堂関白記』と呼ばれる。
その後、道長の家系は「御堂流」と呼ばれ、伊周の家系は「中関白家」と呼ばれる。由来は、伊周の父が道隆が、祖父兼家と道長の中継ぎの関白になったことからその様に呼ばれるようになった。御堂流は、後に五摂家などに分裂する。
27年、藤原道長、没。
藤原頼通
27年、藤原道長、没。頼通独自の政治が始まる。
翌28年、平忠常の乱。31年、鎮圧。
38年、延暦寺の強訴
51年、東北で前九年の役。
53年、平等院鳳凰堂建立。
62年、源頼義が前九年の役を解決。翌63年、源頼家が鎌倉に鶴岡八幡宮を建立。
荘園整理令
68年、後三条天皇が即位。宇多天皇以来、17年ぶりに藤原摂関家を外祖父に持たない天皇が誕生した。後三条天皇は、藤原摂関家の外祖父がいなかったため、藤原頼通に冷遇されていた。そのため、天皇に即位すると、藤原摂関家に復讐を行う。
同68年、臨済宗の祖である栄西が宋王朝(中国)の留学から帰国。
翌69年、延久の荘園整理令。目的は。藤原摂関家(藤原頼通)の荘園を没収することであった。京都(中央)に記録荘園記契所を設置。荘園のチェックを国司から取り上げた。
多くの荘園が没収された一方で、この荘園整理令で認められた荘園は、朝廷のお墨付きがつき、国司に対して強い態度が取れるようになった。国司も多くの公領が手に入ったので荘園に手を出す必要が亡くなった。これにより、荘園公領制が成立した。
院政
72年、後三条天皇は白河天皇に譲位。翌73年、後三条天皇、崩御。
77年、東北で後三年の役。83年まで
86年、白河天皇は、堀河天皇を即位させ、上皇になる。
95年、白河上皇、院庁に北面の武士を置く。
96年、白河上皇、出家して法皇になる。
政治 摂関政治→院政
摂関政治とは
摂関政治とは、藤原氏が天皇の外祖父として、摂政関白の地位で政治を動かすことである。
- 氏の長者 藤原家のトップ(私的な役職)
- 摂政 幼少の天皇に対して、天皇の政務を代行する役職。飛鳥時代から役職で、本来は皇族が就いたが、平安時代からは、藤原摂関家がつくようになる。
- 関白 天皇の政務のサポート。令外の官で、太政大臣よりも上の役職とされた。
- 内覧 天皇に渡される書類のチェック係。令外の官で、
- 外祖父 天皇の母方の祖父。父方の祖父は当然天皇である。
藤原家の摂関政治を支えたのは、経済力にあった。この源泉は2つあった。
1つは、荘園である。多くの有力農民は税金免除の見返りに、寄進を受けた。さらに、荘園整理令を使って脅し、寄進を促進させた。
もう1つは、受領(国司)からの賄賂である。国司は、一定額以上の税金は国司の給料になった。そのため、下級役人にとって魅力的な役職であった。
荘園整理令
荘園は、有力農民が寄進した私有地である。そのため、税金を取れない。
度々、荘園整理令を出し、根拠のない荘園は取り消され、税金を徴収した。この調査を行うのは、国司(受領)である。その人事権をもっていたのが上級貴族である藤原摂関家であった。
寄進を受けた荘園領主は、没収されないように、更に上級貴族へ寄進した。寄進した荘園領主は領家と呼ばれ、寄進を受けた上級貴族は、本家と呼ばれた。
後三条天皇はここにメスを入れた。藤原摂関家の息のかかった国司ではなく、中央に記録荘園記契所を設置して、荘園のチェックを行った。これにより、多くの荘園が没収された。
一方で、ここで承認を得られた荘園は、国司(受領)も手を出さなくなった。荘園公領制の成立である。
武士の台頭
荘
院政期の摂関家
後三条天皇の時代に入ると、頼通は冷遇された。
師実は、男子の後継者に恵まれた。しかし、中宮になる娘には恵まれなかった。そのため、養子をむかえて、白河天皇の中宮に入内。堀河天皇が誕生。再び外祖父に返り咲くことができた。師実にはライバルがいた。いとこの藤原信長である。信長と氏の長者の地位を争った。
94年、師通(師実の長男)が関白に就任。師実は政界を引退した。新興勢力の院近臣に抵抗した。95年、延暦寺の強訴に対抗。これに対し、延暦寺は呪詛を実施。99年、師実が急死。延暦寺の呪詛の影響が噂された。
師通の急死は、御堂流に大きな危機を与えた。後継者の忠実はまだ若く、関白になることができなかった。これにより、摂関家は衰退。政治の中心は院近臣に移った。00年、忠実が関白に就任した。
この時代の主要な藤原家は3つである。
1つは、道長・頼通の御堂流である。
2つ目は、道長の兄である道隆の家系である中関白家である。
3つ目は、道長の叔父である公季の家系である閑院流である。
武士の台頭と地方
刀伊の入寇
19年、女真人が北九州を襲った。大宰府の長官であった藤原隆家(中関白家)は、九州の武士団を使って撃退した。
女真人は、中国東北部の民族である。7世紀末に渤海を建国するも、10世紀にモンゴル系の遼(契丹)によって滅ぼされる。刀伊の入寇は、モンゴルの支配下にあった女真人が襲ったものである。12世紀に完顔阿骨打が女真人を統一。金王朝を成立させる。
関東・東北
平忠常の乱
28年、桓武平氏で受領の平忠常が関東で反乱を起こす。関白頼通は、同じ桓武平氏(平直方)を派遣した。しかし、失敗。
30年7月、朝廷は、甲斐源氏の源頼信を派遣。平忠常の乱は鎮圧した。
桓武平氏は、没落。京都では、源頼信が台頭するようになる。また、関東の武士(坂東武者)は、源頼信を中心に結束するようになった。
前九年の役
舞台は、東北に移る。東北は、日本海側の出羽国と太平洋側の陸奥国で構成されていた。
陸奥の安倍氏が受領と対立。関白頼通は、源頼信の子の頼義とを東北に派遣した。関東の武士を引き連れて苦戦。出羽の国の清原氏の援助を受けて、62年にようやく鎮圧した。
翌63年、源頼義は鎌倉に八幡宮を建立した。
後三年の役
東北は、出羽の清原氏が勢力を伸ばした。83年、清原氏で内紛が起こる。源頼義の子である義家はこの内紛に介入。清原秀衡が勝利した。
奥州藤原氏
藤原清衡は、後三年の役に勝利すると、姓を藤原に変えた。平泉(岩手県南部)に拠点を置き、奥州藤原氏を開いた。
経済 荘園制度
国司
10世紀に入り、班田制が崩壊。税の徴収は受領(国司)に一任されるようになる。一定の税金を収めればそれ以上の税収は、自分の給料にすることができた。そのため、中小貴族においては、魅力的な役職になった。
11世紀に入ると、中小貴族は、朝廷や上級貴族に賄賂を送り、受領になるようになった。その方法は、私財で朝廷の儀式や自社の造営を実施した(成功・じょうごう)。
11世紀後半には、受領は交代時にのみ現地に赴き、目代を派遣して収入のみを得るようになった。国衙は、その国の有力者が在庁官人(ざいちょうかんじん)として世襲して働くようになった。
11世紀の荘園 寄進地系荘園
10世紀、荘園の経営は、有力農民は受領から荘園を守る必要があった。そのため、土地の名義を有力者に変えて、税金よりもやすいレンタル料で土地を借りる手法を取った。
このような荘園を寄進地系荘園という。
文化)平等院鳳凰堂
浄土教
11世紀初頭、末法思想が流行した。末法思想とは、現代で言う世紀末思考のように、この世の終わりが来るという考え方である。
ヨーロッパでも、1000年後に最後の審判が来るという信仰があり、1000年以降、それが現実味を帯びてきた。
この頃、貴族を中心に極楽浄土に憧れるようになった。
頼通は、別荘地の京都郊外の宇治に平等院鳳凰堂を建設した。10円玉に描かれている建物である。これは、極楽浄土を想像して建築された。