12世紀の日本 平安時代 貴族社会から武家社会へ

前回の復習 13世紀の日本

 13世紀は、鎌倉時代である。鎌倉幕府が成立。源頼朝がなくなると権力闘争の時代に入っていく。その勝者が北条義時出会った。

 承久の乱で幕府陣営が勝利。北条家を中心とした政治が展開された。

12世紀の国際情勢

 12世紀、中国は宋王朝の時代。女真族(満州族)の金王朝に華北を奪われる。

 ヨーロッパは、ローマ教皇の絶頂期である。十字軍遠征が展開された。13世紀末にインノケンティウス3世が即位。神聖ローマ帝国(ドイツ)、フランスとイングランド(イギリス)の国王(皇帝)が参加した第3回十字軍は展開される。

流れ 貴族政治から武家政治へ

院政

 85年、白河上皇が院政を始める。都の外にあった法勝寺の近くに転居した。

 その後、上皇たちは、法勝寺の近郊に寺を建立。六勝寺と呼ばれるようになる。

 また、上皇たちは、熊野詣を度々行った。

 95年、白河上皇が警護のために武士を集めた。これが北面の武士である。

 96年、白河上皇は出家。法皇になる。ちなみに、第1回十字軍はこの年に始まる。

 29年、白河法皇がなくなる。白河上皇の孫である鳥羽上皇の院政が始まる。

源氏と平家の台頭

 12世紀に入ると、僧兵が京都に強訴するようになる。その代表例が滋賀(近江)の延暦寺と奈良(南都)の興福寺である。

 延暦寺は、9世紀初頭(平安時代初期)に最澄(天台宗)が立てた寺である。また、興福寺は摂関家である藤原氏の氏寺である。

 白河上皇は、強訴に対抗するために、95年に北面の武士を設置した。

 これを防いだのが、源氏と平家である。源氏と平家の棟梁は、昇殿を許されるようになった。

56年、保元の乱

 鳥羽法皇(治天の君)と崇徳天皇の関係は悪かった。崇徳天皇は、本当は白河法皇の息子ではないかとの噂があったからである。

 55年、鳥羽法皇は、崇徳天皇に譲位させ、後鳥羽天皇を即位させた。翌56年、鳥羽法皇が崩御。治天の君の地位をめぐり、保元の乱が起こる。

 保元の乱は、藤原家(摂関家)、源氏、平氏が2手に分かれた争った。

負け
後白河天皇(弟)
 鳥羽法皇が任命
 鳥羽法皇が指示
天皇・上皇崇徳上皇(兄)
 白河法皇が任命
 白河法皇の子?
藤原忠通(兄)

鳥羽院の近臣
 藤原信頼
  (道隆の家系)
 信西(南家)
藤原氏(北家)・
摂関家
藤原頼長(弟)
 藤原忠実(父)
源義朝(子)
 頼朝の父
源氏源為朝(父)
平清盛(甥)平家平忠正(叔父)

 上皇側には年長者が、後白河上皇側には若手が集まった。

 この戦いでは、後白河天皇側が奇襲で勝利した。院のあった六勝寺近郊は消失した。そのため後白河上皇は、都の南東にあたる三条に新たな院を設置した。

 崇徳天皇は、讃岐(香川)に流刑。摂関家である道長の家系(御堂流)では、頼長が死亡。多くの荘園を没収された。源氏と平家の敗戦の武将を死罪を申し付けられた。この時代、死罪は

59年、平治の乱

 後白河院政が始まると、内政では信西が、軍事では平清盛が牽制を振るうようになる。

 冷遇されたのが、藤原信頼と源義朝であった。

 59年、平清盛が熊野詣で京都を離れた。藤原信頼と源義朝が挙兵。後白河上皇と二条天皇を保護、信西の失脚を求めた。信西は自害した。その後、平清盛が帰京。上皇と天皇を奪還。平治の乱は、失敗した。

天皇
信西(南家)
 → 自害
摂関家藤原頼長
(道隆の家系)
 →処刑
平清盛平家
源氏源義朝 → 家来の暗殺
源頼朝 → 伊豆に流刑

 源氏は、壊滅状態。摂関家(院近臣)も、有力者2名を失う。これにより、平氏政権が成立する。

平氏政権

 院近臣の大部分がいなくなったため、平清盛は公卿になった。

 源氏がいなくなったため、平氏が唯一の軍事力になった。

 67年2月、平清盛が太政大臣に就任。

 平氏の経済基盤は、3つあった。1つ目は、知行国の獲得である。上皇は、唯一の軍事力になった平氏を敵に回すことができなくなった。そのため、30あまりの知行国を平氏に与えた。

 2つ目は、荘園領主である。源氏や藤原氏がもっていた荘園を奪っていた。

 3つ目は、日宋貿易である。平清盛は、瀬戸内海の海賊退治で名前を上げた。瀬戸内海の海路を抑えていた。神戸(福原)の港を整備し、日宋貿易を拡大した。このとき、宋から多く輸入したのが宋銭である。ここから日本の貨幣経済が浸透していく。

源平合戦

 71年、高倉天皇に平清盛の娘である徳子が入内

 77年6月、鹿ケ谷の陰謀。院近臣が平氏打倒の計画を練る。

 79年11月、後白河法皇が幽閉。院の近臣39名を解任。これが治承三年の政変である。

 80年、安徳天皇が即位。平清盛は外祖父になる。

 同年5月、以仁王の平家追討の令旨。これは失敗に終わる。この時、以仁王に味方した奈良県の寺院(興福寺・東大寺)を焼き討ちにする。(南都焼討)

 同年6月、平氏は、福原(神戸)に遷都。

 同年8月、源頼朝が流刑地の伊豆で挙兵

 翌81年閏2月、平清盛、没。

 83年、木曽の源義仲が入京。

 翌84年1月、鎌倉陣営の源義経が入京。源義仲を討つ。

 85年3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡

鎌倉幕府の成立

 85年3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。京都(後白河上皇)と鎌倉(源頼朝)の権力闘争が始まる。

 先手を打ったのは、後白河上皇である。10月、源平合戦のエースであった源義経を引き抜き、源義経に源頼朝の追討の院宣を出す。これにより、源頼朝は朝敵にし、坂東武者が京都陣営に引き込もうとした。

 これを受けて、11月、源頼朝は、坂東武者で義父の北条時政を京都へ派遣。後白河上皇は、頼朝の脅迫に屈し、源頼朝に源義経に追討の院宣を出す。このとき、戦費確保の名目から、2つの権利を獲得した。

  • 守護地頭の設置
  • 兵糧米の徴収

 現在では、守護地頭の設置をもって鎌倉幕府の成立と考えるようになった。

 92年、後白河法皇が崩御。源頼朝が征夷大将軍に就任。

 98年、土御門天皇が即位。

 99年、源頼朝が死去。

 

政治 院政の時代

なぜ、院政を行うのか?

 現在の日本は、後継者を指名する際には、遺言書を作成する。これによって、確実に指名したものを社長に据えることができる。

 しかし、平安時代の遺言書は効果がない。そのために確実に皇位を継承するために、生前に譲位した。

 そのため、上皇の重要の役割は、皇位継承者の指名であった。

役職・組織

治天の君・法皇・上皇

  • 上皇 譲位した元天皇
  • 法皇 出家した上皇
  • 治天の君 皇族のトップ

 天皇とは異なり、上皇と法皇は複数名いる。そのため、上皇の中でも実権を持たないものもいた。上皇・法皇の中で実験を握ったものを「治天の君」と呼んだ。

 院とは、上皇の住まいである。天皇が住む内裏(里内裏)と区別した。平安京の外に置かれた。

 院宣とは、上皇が天皇に対して行ったアドバイス(事実上の命令)である。院政期、天皇は院宣に従って政策を行った。

 上皇は、院近臣(いんのきんしん・上皇の家来)を院庁(いんのちょう)にあつめ、政策の方針を決めた。院庁は、上皇個人の政策シンクタンクということになる。

 また、上皇は荘園領主の地位をもっていた。上皇の持つ荘園に対しては、

院の軍事力 北面の武士

 11世紀末、白河上皇は武士を集めた。これが北面の武士である。僧兵に対抗するために設置された。

 北面の武士で台頭してきたのが桓武平氏である。

滝口の武士北面の武士西面の武士
9世紀末、宇多天皇11世紀末、白河上皇13世紀初頭、後白河上皇
蔵人頭の下に置かれ、
天皇・内裏を警護
上皇の警護上皇の警護

上皇の財政

概要

 上皇は、役所ではないので給料は発生しない。一方で、天皇ではないので、荘園経営が可能であった。上皇に多くの寄進が集まり、

上皇知行国

 院政が始まると、人事権は治天の君が握るようになった。当時、重要な人事は国司(受領)である。受領は、現代で言う都道府県知事である。税金は、国司(県)が徴収し、給料を引いて国家(朝廷)に納付した。

 下級貴族にとって、憧れの役職が国司(受領)であった。

 上皇は、下級貴族を国司(受領)に任命し、見返りに収益の一部を受け取った。

 また、国司任命権の一部を上級貴族や皇族に渡し、国司から受け取った収益の一部を見返りとして受け取った。国司任命権を渡した国を知行国とよんだ。皇族や上皇がもった知行国を宮院知行国とよんだ

藤原摂関家(近衛家と九条家)

保元の乱以前 忠実・頼長父子 vs 忠通

 藤原摂関家のトップは、道長・頼通親子の御堂流である。院政期は、忠実の時代であった。

 藤原忠実の時代である。藤原忠実は、父の急死により、01年若くして、堀河天皇の関白に就任した。これにより、政治の中心は、摂関家から院近臣に移った。

 鳥羽天皇が即位すると、鳥羽天皇の外戚である閑院流の藤原公実が台頭した。

 閑院流は、道長の叔父の家系である。公実の息子によって、三条家、西園寺家、徳大寺家が成立した。

 公実の娘が鳥羽天皇に入内。忠実も娘を入内させようとした。鳥羽天皇も乗り気であったが、白河法皇が反対。これにより、忠実は関白を事実上やめさせられた。21年、忠実の長男である忠通が関白に就任。忠実と忠通の関係は悪化した。

 29年、白河法皇が崩御。鳥羽院政が始まる。これにより、忠実は成果に復帰した。忠実は、後継者を忠通の弟の頼長を後継者(氏の長者)に指名した。忠通と頼長の兄弟対立は保元の乱につつながる。

保元の乱

 藤原頼長と鳥羽法皇は、荘園領主として対立関係にあった。頼長が摂関家の荘園を相続したためである。

 近衛天皇が崩御。後継者問題が発生した。弟の頼長は、崇徳上皇の子を推薦。兄の忠通は、近衛天皇の兄を後継者と考えていた。鳥羽法皇は、忠通の推す近衛天皇の兄を即位させた。後白河天皇である。頼長は冷遇された。

 このような中、鳥羽法皇が崩御。崇徳上皇vs後白河天皇の保元の乱に突入する。後白河天皇が勝利した。

 頼長は、この戦いで戦死。引退した忠実(父)は静観していたが、発言力は低下。荘園の大部分が没収された。

 鳥羽院で活躍した藤原道隆の家系(中関白家)の藤原信頼と藤原南家の信西が、御堂流の代わりに政治の中心に就いた。

平治の乱

 後白河天皇は、鳥羽院の近臣であった藤原信頼と信西を優遇した。しかし、後白河天皇と藤原信頼の関係が悪化した。

 藤原信頼は、反信西連合を結成。平治の乱を起こす。この平治の乱で、信西が死亡。藤原信頼も処刑された。次に白羽の立ったのが藤原忠通の子である基実であった。

源平合戦

 基実には、2人の弟がいた。基房と兼実であった。基実とその子の基通の親子は平家に接近した。一方で基房は、源義仲に接近。義仲が京都を制圧すると摂関職に就いた。その後、源義経が義仲を討つと、基房が失脚。基通が摂関職に復帰した。

 その後、頼朝追討の院宣の問題で、基通が失脚。叔父の兼実が摂関職についた。その後、反頼朝の基通の家系(近衛家)と親頼朝の兼実の家系(九条家)が交互に摂関職を担うようになる。

 ちなみに、摂家将軍を出すのは、九条家である。

外交)奥州藤原氏の滅亡

奥州藤原氏

 奥州藤原氏は、現在の岩手県南部の平泉に拠点をおいた地方政権であった。11世紀後半の後三年の約に勝利して成立した政権である。

 24年、中尊寺金色堂を建立。

 50年、納税額で、京都の摂関家と揉める。

 59年、平治の乱。

 74年、秀衡が源義経を保護。

 80年、源義経が挙兵。源頼朝に合流する。

 85年11月、義経追討の院宣。

 翌86年4月、京都に直接納付していた納税を、鎌倉への納税に切り替える。

 86年冬。義経が平泉到着。秀衡は保護する。

 翌87年10月、秀衡が死去。

 89年閏4月、泰衡が義経を自害に追い込む。

 89年、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす。

南宋貿易

 9世紀末に遣唐使が廃止されたが、それでも民間の交流は盛んであった。交易も盛んであった。

 27年に南宋が成立すると、豊かな江南地方(南部)の経営に専念。経済的に豊かになった。そのため、12世紀後半の平氏政権時代には、日宋貿易は盛んになった。

経済 知行国制度

農業)荘園公領制

 11世紀なかばの延久の荘園整理令で、荘園の整理が進んだ。そのため、荘園と公領(荘園以外の農地)の区分が明確になった。それが荘園公領制という。

 公領は、実情に合わせて郡・郷・保にわけて管理するようになった。

 税金も、物納の官物と労働税である臨時雑役から、年貢(米や絹布など)と公事(野菜などの特産品)、夫役(労働税)に再編された。

農業)地頭

 11世紀になると、受領(国司)は現地に行かなくなり、現地の有力者が世襲で地方の行政(国衙)で働くようになった。このような地方の有力者を在庁官人とよんだ。彼らの重要な業務は、名主(田畑の経営者)から年貢(税金・当時は官物と呼ばれていた)の徴収であった。

 また、荘園領主も、名主からの田畑の使用料の徴収も有力農民に任せるようになった。このような有力農民は、荘官とよばれた。

 このように、在庁官人や荘官のように年貢などを徴収する有力農民を地頭(じとう)というようになった。

 85年、源頼朝は、全国の地頭の任命権を獲得した。これにより、地頭の身分が幕府によって保証されるようになった。地頭と受領・荘園領主との立場が後に逆転していく。

名主 → 地頭(在庁官人) → 受領(京都)→朝廷(京都)

名主 → 地頭(荘官)   → 領家(京都)→本家(京都)

商業)貨幣経済へ

 地方から、京都への年貢の輸送は地頭が担うようになった。彼らは、その業務を物流業者へ委託するようになる。この物流業者を問丸(といまる)とよばれた。

 また、日宋貿易で大量の宋銭が流入。鎌倉時代には貨幣経済が浸透していく。

文化)院政期の文化

鎌倉新仏教前夜

 12世紀に入ると、聖(ひじり)や上人(しょうにん)によって、仏教が全国へ広まった。そのため、庶民も仏教を進行するようになった。聖(ひじり)は、寺院に所属せず全国を回って修行した僧侶を指す。また、上人(しょうにん)は、寺院に所属した上級僧侶への尊称である。

 この時期、全国に阿弥陀堂が建立された。阿弥陀様を本尊とした浄土教の寺院である。有名な阿弥陀堂として、福島県(東北)の白水阿弥陀堂や大分県(九州)の富貴寺大堂がある。

 鎌倉時代に入ると、『南無阿弥陀仏』という念仏を唱える浄土宗や浄土真宗につながる。

六勝寺

 白河天皇は、平安京の西に、法勝寺を建立。その後に歴代天皇が5つの寺院を建立。法勝寺をふくむ6つの寺を六勝寺と呼ばれるようになる。

 この地は、もともと白河と呼ばれ、藤原氏の別荘があった。藤原頼通の子が白河天皇に献上した。白河天皇がこの別荘で院政を行ったので、白河殿と呼ばれるようになった。

 寺院の建設は、受領の賄賂(成功)で行われた。

平泉と中尊寺金色堂

 世界遺産になった平泉は、12世紀に奥州藤原氏によって作られた街である。

 その中心は、中尊寺である。中尊寺は、9世紀に天台宗の寺院として建立され寺院を奥州藤原氏改築したものである。

 その代表格が中尊寺金色堂である。中尊寺金色堂も阿弥陀堂である。この時期、多くの聖(ひじり)が平泉を訪れた。

庶民文化

 仏教以外にも庶民文化が流行した。

  • 田楽(でんがく) 豊作を願う歌や舞から発展した芸能
  • 猿楽(えんがく)滑稽なものまねや曲芸から発展した芸能
  • 今様(いまよう)和歌から発展した七五調の歌謡

 後白河天皇は、今様にはまり、今様をあつめた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂した。

文学、絵画

 この時代は、歴史物語が多く作られた。軍記物では、『将門記(しょうもんき)』、『陸奥話記(むつわき)』がつくられ、それ以外でも、『栄花物語』。『大鏡』が作られた。

 絵画では、『源氏物語絵巻』のような絵巻物が作られた。                                                                            

宋王朝との交流

 宋王朝が成立すると、宋王朝と日本の間で民間交易が盛んに行われた。商業だけでなく文化の交流も進んだ。

 インド、中国、日本の説話集をまとめ『今昔物語集』が作られた。

 また、中国から禅が伝わった。これが鎌倉新仏教の臨済宗と曹洞宗につながる。

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