14世紀の日本 室町時代 鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代

前回の復習 15世紀の日本

 15世紀の日本は室町時代。金閣寺を建立した足利義満の時代で始まる。15世紀なかばに応仁の乱が発生。戦国時代へ向かっていく。

14世紀の国際情勢

 14世紀、ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)が流行。これにより、封建社会が崩壊に向かっていく。

 日本では、鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入っていく。

 中国では、元王朝が中国から撤退。北元と呼ばれるようになる。明王朝が成立した。

流れ(南北朝の動乱)

鎌倉幕府への不満

 武士は、荘園領主や国の土地の管理が本業である。その管理料として年貢の一部を給料として生活していた。

 鎌倉時代は、分割相続が原則であった。そのため、管理する土地はだんだん少なくなり、生活に困窮するようになった。さらに、承久の乱以降、大きな戦争がなく領地は増えなかった。

 13世紀後半、元王朝を撃退(元寇・蒙古襲来)。しかし、鎌倉幕府は新たな土地を獲得できなかったため、十分な恩賞を武士に与えることができなかった。

 戦争の費用は、自己負担である。そのため、その戦費負担で武士は更に困窮した。

 鎌倉幕府は、永仁の徳政令などで武士の生活をささえようとしたが、それでも難しかった。

後醍醐天皇

 18年、後醍醐天皇が即位。21年、親政を開始する。

 24年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈。

 31年、後醍醐天皇が再び、倒幕に動き出す。これに合わせて、悪党の楠木正成が挙兵。鎌倉幕府は、別の天皇を擁立し、対抗する。

 32年、後醍醐天皇の倒幕計画は失敗。後醍醐天皇は隠岐に配流される。

鎌倉幕府の滅亡

 33年、後醍醐天皇が隠岐を脱出。これに対し、幕府は京都へ足利高氏を向かわせる。しかし、足利尊氏は、幕府を裏切り六波羅探題を攻略した。

 また、鎌倉でも新田義貞が材木座の九品寺で挙兵。鎌倉幕府は滅亡した。

建武の親政

 鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は年号を建武に改め、建武の親政を開始した。教科書では、公家を優遇し、武家を冷遇したため、武士が不満を持ったと記載されれている。

 実際は、土地の所有権に関する問題であった。鎌倉幕府は、御成敗式目と慣例にしたがって所領の安堵(保証)を行った。しかし、後醍醐天皇はその慣習を無視し、独断で土地の訴訟を取り扱った。そのため、土地の訴訟が急増し、さらに地方で判断ができず、急増した訴訟は、京都に集中した。

 訴訟の遅れや所領を奪われる可能性が高い武士は、後醍醐天皇の政策に不満を持つようになった。

南北朝の動乱

足利尊氏の反乱

 35年、不満を持った武士たちは、足利尊氏を頼った。

 35年7月、鎌倉で旧幕府陣営による反乱が起きた(中先代の乱)。後醍醐天皇は、足利尊氏とトップとした討伐軍を派遣。この反乱は鎮圧した。

 問題は、その後の対応である。足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ずに恩賞を配りだした。

 後醍醐天皇はこれを謀反とみなし、有力武士の新田氏や北畠氏を派遣した(第一次京都合戦)。足利尊氏は、これに敗北。九州へ逃亡し再起を図った。

室町幕府の成立

 36年7月、持明院統の光厳上皇の院宣を受けて上京。湊川の戦いで、新田・楠木連合軍に勝利。楠木正成はこの戦いで戦死する。その後、第二次京都合戦で京都を制圧。後醍醐天皇を幽閉。10月、持明院統の光明天皇を即位させ、建武の親政が終わる。

 11月、『建武式目』を制定。室町幕府は成立した。

 38年、足利尊氏は、光明天皇によって征夷大将軍に任命された。

 一方で、後醍醐天皇は京都を脱出。奈良の吉野に拠点を築き、自らが天皇であると主張した。つまり、2人の天皇が存在する事になった。この時代を南北朝時代という。

 この分裂は、全国の武士を巻き込んだ戦いになった。そのため、戦場は、京都だけでなく、鎌倉や地方も舞台になった。

室町幕府の分裂

 南朝は、新田氏、北畠氏が戦死。有力武将がなくなった。さらに、39年に後醍醐天皇も崩御。南朝はパワーダウンしていた。

 しかし、北朝でも問題が起きていた。

 室町幕府は、足利尊氏と足利直義(ただよし)の兄弟によって運営されていた。尊氏は、軍事を担当。直義は、裁判などの内政担当した。このとき、裁判をめぐり、足利直義と高師直が対立。北朝は、足利尊氏・高師直連合と足利直義に分裂した。これが観応の擾乱である。

 南朝、北朝の尊氏派、北朝の直義派の三つ巴の戦いが始まった。

 南朝の北畠親房は、『神皇正統記』で南朝の正統性を訴えた。

足利義満

 68年、三代将軍足利義満が即位。

 70年、朝廷から京都の市施件を

 78年、京都の室町に花の御所と呼ばれる邸宅を建設。ここから、足利武家政権は室町幕府と呼ばれる。

 足利義満は、細川家と斯波家の対立を利用し、管領など有力武士の発言力を低下させ、将軍の権威を高めた。

 79年、管領の細川氏を失脚させ、土岐氏をつうじて斯波氏を管領に就けた。

 90年、土岐康行の乱。斯波政権を成立させた土岐康行を討伐した。土岐氏は、畿内近郊の美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県東部)、伊勢の3国の守護であった。

 91年、明徳の乱。六分の一殿とよばれた山名氏を討伐した。山名氏は、現在の広島県や島根県(中国地方)の守護であった。これにより、足利義満の権威は高まった。

 92年、南朝の天皇が皇位を放棄し、南北朝が合一した。

 95年、将軍の地位を息子の義持に譲り、出家。義満の大御所政治が行われる。

 99年、応永の乱。現在の福岡県や山口県の守護であった大内氏を討伐。

 99年、北山に金閣寺を建立。

 01年、日明貿易を開始。

 08年、大御所足利義満、没。

政治 室町幕府

皇室

両統迭立

 13世紀前半、承久の乱で幕府と朝廷の権威は逆転した。

 13世紀後半、天皇家で後継者争いが発生。幕府が仲介に当たり、皇室財産を分割し、天皇は、鎌倉幕府が選択するようになった。

 これにより、皇室は、大覚寺統と持明院統に分裂した。

後醍醐天皇の即位と文保の和談

 08年、大覚寺統の後二条天皇が若くして崩御。皇太子は、持明院統の花園天皇が即位した。次の皇太子には、後二条天皇の子ではなく、後二条天皇の弟の後醍醐天皇を皇太子にした。

 17年、花園天皇が崩御。再び大覚寺統の後継問題が表面化した。鎌倉幕府は文保の和談で関係者を納得させた。

  • 翌18年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位
  • 以後、天皇の在位期間は10年とする。
  • 皇太子は、後醍醐天皇の子ではなく、甥(後二条天皇の子)とする。
  • その次の皇太子は、持明院統から擁立する。(のちの光厳天皇)を即位させる。

後醍醐天皇の野望

 後醍醐天皇は、27年に譲位することが決定している。さらに息子を皇太子にすることは絶望的であった。

 そのため、鎌倉幕府を倒幕し、文保の和談を破棄しようとした。

 1回目は、24年の正中の変。この反乱は近臣の処分ですんだ。

 2回目は、31年の元弘の変。この反乱も失敗。承久の乱の選定に従って、32年に隠岐(島根県の孤島)に流される。持明院統の光厳天皇が即位した。

 その後、後醍醐天皇の息子と楠木正成ら悪党とともに挙兵。後醍醐天皇も隠岐を脱出して、帰京。33年、鎌倉幕府が滅亡した。光厳天皇から皇位を取り戻した。

南北朝へ

 36年、足利尊氏は、第二次京都合戦で後醍醐天皇を幽閉。光厳上皇の院宣で、持明院統の光明天皇が即位した。

 一方で、後醍醐天皇は、京都を脱出。吉野(奈良県)で自らが天皇と主張した。

 観応の擾乱で京都は混乱。後醍醐天皇を成敗することができなかった。

 これにより、京都には、持明院統の光厳上皇・光明天皇から始まる北朝が、吉野(奈良)には、大覚寺統の後醍醐天皇から始まる南朝が成立した。

 北朝と南朝は、それぞれ令旨を出すため、土地の所有権などが混乱。多くの武士は、自分が有利になる令旨を出したものを味方した。

南北朝の合一

 この混乱を収拾したのが第三代将軍足利義満である。

 足利義満は、91年、明徳の乱で有力守護の山名氏を討伐し、権力を高めた。翌92年、北朝の荘園の一部を南朝に引き渡すことで、南朝の天皇に皇位を放棄させた。これにより、南北朝の動乱は終結した。

悪党

 楠木正成らは、悪党(あくとう)と呼ばれた。現在の意味は、悪者たちという意味である。しかし、中世では、反乱軍など正規軍以外に武力組織を悪党といった。

 承久の乱によって、東国の武士が西国の荘園や国衙領を管理するようになった。西国の在地領主は、荘園を追われ悪党と呼ばれるようになった。

守護から守護大名へ

 守護は、鎌倉幕府で成立した地方長官である。その目的は、謀反人(源義経)の逮捕であった。地方の有力御家人が無給で担当した。鎌倉時代の守護の仕事は、大犯三か条と呼ばれている。

  • 京都大番役の催促 地方武士の仕事の割り振り
  • 謀反人の逮捕
  • 殺害人の逮捕

 南北朝の動乱が起こると、戦乱は全国へ飛び火した。そのため、地方の有力武将である守護の権限を強化し、味方に引き入れようとした。そのため、室町時代になると以下の権限が追加された。

  • 刈田狼藉の取り締まり
     他人の土地の稲を勝手に収穫する刈田狼藉の取り締まりを許可した。
  • 使節遵行 幕府の裁判の結果によって強制執行を行う
  • 半済令 国内の荘園・公領の年貢の半分を貰う権利

 また、地頭から年貢徴収業務を奪った。これを守護請という。

 年貢徴収権を失った地頭は、国人とよばれた。守護の部下になり、給料をもらうようになった。

外交)前期倭寇

前期倭寇

 13世紀後半に蒙古襲来が発生。元王朝軍を撃退できたものの、十分な恩賞が得られなかった。そのため、九州の武士は貧困。海賊になるものも多かった。これが倭寇(わこう)である。

 ただ、海賊行為するほど財宝をもった船は当時の東シナ海にはなかった。実際は、中国(元王朝)沿岸部との密貿易が主な収入源であった。

 14世紀の元王朝は、紅巾の乱などで混乱。倭寇を取り締まる余裕はなかった。また、日本(九州)では、南朝勢力と北朝勢力の争いが続いており、こちらも倭寇を取り締まる余裕はなかった。

勘合貿易

 02年、靖難の役で永楽帝が即位。倭寇の取り締まりが本格化する。

 一方、九州は、大内氏を中心とした北朝勢力が勝利した。

 99年、足利義満が応永の乱で大内氏を討伐。足利義満は、瀬戸内海から九州を通り中国(明王朝)までの航路を確保した。

 01年、足利義満は、第1回の遣明使を派遣。義満は、永楽帝より、日本国王の称号をもらう。ここから、室町幕府と明王朝の朝貢貿易が始まる。

 このとき、倭寇と区別するために、勘合符を発行したので、勘合貿易とも呼ばれた。

 室町幕府は、貿易を独占することで、大きな収入源を確保した。

経済

武士の給料 なぜ、南北朝動乱が長引いたか?

 武士の給料は、所領からの年貢である。

 当時の武士は、分割相続が主流であった。そのため、相続のたびに所領は減少していった。鎌倉時代の前半では、戦の褒美である領地獲得でカバーしていた。

 しかし、鎌倉時代中期に大きな戦はなくなっていた。そのため、新たな領地は減っていった。所領が少なくなると、分割相続をやめ、単独相続になっていった。

 そのため、相続人になるため、武士は必死になった。

 現在の相続は、民法などにしたがって、地方の法務局に届ければ完了。揉めた場合は、裁判所に行けば判決を出してもらえる。

 鎌倉時代も、幕府に書面を出せば、御成敗式目にしたがって解決してもらえた。

 しかし、建武の新政が起こると、後醍醐天皇の裁量で決定された。そのため、京都へ行かないと解決されない。多くのものが京都を訪れることになった。

 南北朝の動乱が起こるとさらに混乱した。北朝と南朝は、見方を増やすために、それぞれが令旨を出し、土地の所有権を認めあった。武士は、自分に有利な令旨を出した側に味方して戦闘に参加した。そのため、南北朝の動乱は、全国に広まり、長期化した。

文化)北山文化

北山文化と金閣寺

 14世紀は、南北朝の動乱の戦乱の時代。あまり、文化に金を掛ける余裕はなかった。

 しかし、建武の新政によって、多くの武士が京都を訪れた。これにより、京都の公家文化と鎌倉の武士文化の融合が始まりつつあった。

 14世紀末、足利義満が南北朝を合一。京都北部の北山に金閣寺を建設。北山文化が成立した。

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