前回の復習 16世紀前半の日本
16世紀前半は、戦国時代。室町幕府は存在したが、機能不全に陥っていた。
15世紀の国際情勢
15世紀、ここから中世の歴史を見ることになる。中世の特徴は、封建社会と宗教の問題が表面化した時期である。
中国は、明王朝の時代。15世紀初頭の永楽帝の時代に全盛期を迎える。しかし、永楽帝が亡くなると明王朝は衰退期に入る。15世紀なかばの土木の変では、皇帝が北方騎馬民族の捕虜になった。
ヨーロッパでは、多くの戦争が行われた。百年戦争とイタリア戦そうである。多くの戦争により、貴族は没落。国王への権限強化が始まった。
また、宗教戦争の前身であるフス戦争が起きた。
流れ(室町時代)
足利義満(南北朝の合一)
14世紀末、足利義満が南北朝の合一をはたし、南北朝の動乱は集結した。足利義満の功績は、以下の通りである。
- 南北朝の合一
- 有力守護大名の勢力をおとす
討伐、家督争いに介入など - 明王朝(中国・永楽帝)と勘合貿易を始める
- 金閣寺を建立(北山文化)
足利義教
28年 正長の土一揆(in 関西)
29年、くじ引きで第6代将軍に足利義教が決まる。
前28年、正長の土一揆が起こる。
28年は、西日本で大凶作が発生。また、「三日病(みっかやみ)」という病が流行した。これにより、多くのものがなくなった。
借金帳消しを求める一揆が始まった。滋賀(近江)ではじまった正長の土一揆は、近畿地方全域に広まった。足利義教が新将軍に決まると、この正長の土一揆は加速した。
興福寺など多くの者が、この一揆に応じた。そのため、15世紀から16世紀にかけて、一揆は急増した。
38年 永享の乱 in 関東
38年、鎌倉で永享の乱が起こる。鎌倉公方は、堀越公方と古河公方に分裂した。
室町幕府は、関東に鎌倉公方を置いた。鎌倉公方には、足利尊氏の子(2代将軍義詮の弟)が就き、世襲した。また、鎌倉公方の監視役として、関東管領を設置。関東の守護大名である上杉家が世襲した。
鎌倉公方(足利家分家)と関東管領(上杉家)が対立。上杉家は、将軍家(足利家宗家)に支援を求めた。将軍義教は、これをうけて自分の息子を鎌倉公方に指名した。
49年 将軍暗殺
49年、嘉吉の乱で、将軍足利義教が暗殺される。
足利義政 応仁の乱
明応の政変 戦国時代の始まり
足利義尚。父義政が政治実権
義稙vs堀越公方
明応の政変。管領細川が、将軍を失脚させる。
伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を乗っ取る
政治 室町幕府
中央
室町幕府
14世紀は、室町幕府の時代である。
幕府とは、軍事組織である。軍事組織には、仮想敵が存在する。それぞれの仮想敵は南だったのであろうか。
鎌倉幕府 | 室町幕府 | 江戸幕府 | |
仮想敵 | 平家の残党 源義経 奥州藤原氏 | 南朝 | 戦国大名 |
成立前の 戦乱 | 源平合戦 | 南北朝の動乱 | 戦国時代 |
所在地 | 鎌倉(関東・神奈川) | 京都(関西) | 東京(江戸) |
室町幕府は、南朝から京都を守るために成立した軍事組織である。そのため、南朝の吉野(関西・奈良)に近く、北朝のある京都に置かれた。
将軍足利家
このあと、動き出したのが一橋派の薩摩藩(島津家)である。島津久光(藩主の父)が京都へ行く。朝廷から勅使を報じて江戸に向かった。これを使って幕府の政治改革を行った。一橋派を中心とした人事が行われた。
- 松平慶永(越前) 政事総裁職
- 一橋慶喜(水戸) 将軍後見役
- 松平容保(会津) 京都守護職
ちなみに、松平容保が京都で結成したのが新選組である。
三管領
室町幕府は、鎌倉殿の13人のように、将軍と有力守護大名の合議で政治が進められた。
守護大名の筆頭は、管領と呼ばれた。
管領は、3つの有力守護で持ち回りされていた。鎌倉時代は、執権職を北条家が独占。鎌倉幕府は、北条家によって運営されるようになった。これを反省し、管領職は1つの家に独占されないようにした。しかし、家督争いで斯波家と畠山家が没落。応仁の乱以降は、細川家がほぼ独占した。
1つ目は、斯波家である。京都の東である名古屋(尾張)や福井(越前)などの守護であった。守護代も有名で、福井の朝倉氏や尾張の織田氏は後の有力守護大名になった。
2つ目は、畠山家である。寺社勢力の強い和歌山(紀伊)や京都(山城)、富山(越中)などの守護である。和歌山(紀伊)の統治は難しく、羽柴秀長などの有力文官が統治した。江戸時代には、御三家の一つ紀伊徳川家が治めた。
3つ目は、細川家である。四国4国や摂津(兵庫・大阪西部)の統治を行った。応仁の乱以降は、細川家が管領を世襲した。
四職
中央の組織には、管領の下に4つの部署が設置された。
- 政所 幕府の財政管理・京都の行政
- 侍所 京都の警備・刑事裁判
- 問注所 行政・司法の文書の作成保管管理
各部署の筆頭は、所司(しょし)と言われた。特に重視されたのが侍所所司である。これは、四家が持ち回りとされた。
1つ目は、京極家。出雲などの中国地方の守護を務める。
2つ目は、山名家である。但馬などの中国地方の守護を務める。
3つ目は、赤松家である。播磨など中国地方の守護を務める。
4つ目は、一色家である。三河など東海地方の守護を務める。
直轄軍、奉公衆
室町幕府は、将軍の直轄軍である奉公衆がいた。本能寺の変で織田信長を討つ明智光秀は奉公衆出身である。
守護大名を成敗するときに使ったのが奉公衆である。平時は、幕府の直轄地である御料所の管理を行った。
鎌倉公方と関東管領
鎌倉公方は、鎌倉と関東の武士(坂東武者)の管理のために置かれた。初代将軍足利尊氏の子の持氏が就任した。その後世襲された。
その監視役として、関東管領を設置。有力守護大名の上杉家が世襲した。
さらに、山梨に甲斐武田家、静岡(駿府)に今川家をおき、関東の反乱を防止した。
14世紀末、将軍家義満と鎌倉公方氏満が対立した。2人はいとこ同士の関係である。これにより、鎌倉公方は独自路線を進むようになる。この時、関東管領(上杉家)は将軍指示に回ったため、鎌倉公方と関東管領も対立するようになった。
14世紀末、3代将軍義満が息子の義持に譲位。大御所政治をはじめる。このこと、義満は、有力守護大名の力を削ぐ政治を行った。そのため、反発も大きかった。
当時の鎌倉公方は、氏満の子の満兼(みつかね)である。義満から満の文字をもらっている。将軍義持とは、はとこの関係である。鎌倉公方の満兼は、将軍に反発する有力守護大名たちを味方につけて、将軍になろうとした。しかし、関東管領(上杉家)が諌めた。鎌倉公方の満兼は、三島大社に恭順の意を示す奉納を行った。
15年、鎌倉公方に、満兼の子である持氏(義持の持の字をもらう)が就任。関東管領上杉禅秀と評定で口論。上杉禅秀は、関東管領を辞する。
翌16年、上杉禅秀は、関東管領の持氏の叔父をかついで反乱を起こす。上杉禅秀の乱である。
その後、若い関東管領が続いた。そのため、持氏は、独裁的な政治を行うようになった。関東の武士たちは、鎌倉公方に不満を持つようになっていった。
幕府は、将軍の度重なる死去と正長の土一揆の混乱。関東に軍隊を送る余裕はなかった。
38年、鎌倉公方持氏の子の元服の儀が行われた。慣例に従えば、現将軍義教の「教」の文字が使われるはずであった。しかし、発表された名前は、「義久」であった。「教」の文字が使われないばかりか、将軍家しか使わない「義」の文字が使われた。
これを受けて、関東管領の上杉憲実が挙兵。鎌倉公方に不満を持ってい関東の武士たちはこれに呼応した。また、裏で、将軍義教も支援していた。
将軍の義教は、実子の政知(まさとも)を鎌倉公方にしようとした。しかし、結城氏などの関東の武士たちは、持氏の子である成氏(なるうじ)を鎌倉公方につけようとし、対立。
守護から守護大名へ
守護大名
室町幕府の成立時は、南北朝の動乱の時代である。両勢力とも、有力武士の引き抜き合戦が行われた。その経緯で、有力武士である守護の権限が大きくなった。ここから守護は、守護大名と呼ばれるようになった。
守護 | 守護大名 | 戦国大名 | 大名 | |
時代 | 鎌倉時代 13世紀 | 室町時代 14世紀〜15世紀 | 戦国時代 16世紀 | 江戸時代 17世紀〜19世紀前半 |
任命 | 幕府 | 幕府 | 実効支配 | 幕府 |
生活拠点 | 領地 | ほとんど在京 | 領地 | 領地と江戸を参勤交代 |
守護の統治の仕方
守護は、領地にいかず京都で幕府の政治に携わった。
かわりに、領地には守護代を派遣した。
家督争い
血縁から地縁へ
守護大名から戦国大名へ
応仁の乱以降、京都では戦乱が続いた。そのため、京都にいた有力守護は、領地に目を配る余裕がなくなった。
守護代や国人は、幕府や守護を無視するようになった。このようにして、実質的に守護大名のようになった。このような守護代や国人を戦国大名という。
斯波家の守護代であった福井(越前)の朝倉家や名古屋(尾張)の織田家が一例である。
毛利家は、中国地方の国人から戦国大名になった。
静岡(駿河)の今川家や山梨(甲斐)の武田家のように、領地にいた守護大名は、そのまま戦国大名になったケースが多い。
将軍と大御所
朝廷
外交)勘合貿易
勘合貿易
永楽帝
間宮林蔵
沖縄 琉球王国の成立
03年、アメリカ船が長崎に来航
ロシアのレザノフ
北海道 コシャマインの戦い
経済
幕府の財政
武士の収入源は、地頭として管理する土地の収益である。そのため、幕府は、武士に対して給料を払う必要はない。それでも、幕府を運営する経費は発生する。
幕府を運営する経費や将軍の給料は、幕府の直轄地(御料地)からの収入で賄われた。
ただ、幕府の主たる税収はこの他に2つあった。
1つ目は、金融業者(酒屋・土倉)への税金である。
2つ目は、通行税である。陸上交通では、主要な街道に関所を設置。関所を通過するものから通行料(関銭)を徴収した。海上交通では、港の使用料(津料)を徴収した。
一揆
14世紀に入ると、貨幣経済が武士だけでなく農民まで浸透した。農民も借金をするようになった。特に商業の発展した近畿地方で多かった。
資金の貸し手の中心は、寺社や商人であった。商人では、土倉(どそう)や酒屋が金融業者の役割を担った。
28年、西日本で大凶作が発生。これにより、借金で首が回らなくなる農民が急増。正長の土一揆が起こる。
正長の土一揆で多くの借金の棒引きが行われた。これを以降、一揆の件数は急増する。
現在も、借金で首が回らなくなったら、民事再生法や自己破産によって借金を帳消しや減免が可能になっている。