前回の復習 18世紀前半の日本
18世紀の日本は、江戸時代。18世紀前半は徳川吉宗の時代。江戸時代三代改革の1つである享保の改革が行われた。
17世紀後半の国際情勢
ヨーロッパは、太陽王ルイ14世の全盛期である。世界各地で絶対王政が構築された。
- 徳川綱吉 日本 江戸幕府
- 康熙帝 中国 清王朝
- アウラングゼーブ帝 インド ムガル帝国
- ルイ14世 フランス ブルボン朝
一方、イングランドでは、イギリス革命が勃発。清教徒革命と名誉革命が起きた。また、その間にも英蘭戦争が行われた。
インド(ムガル帝国)のアウラングゼーブ帝が南インドを征服。その戦費を調達するために、シズヤを復活した。これにより、ヒンズー教との反感を買い、衰退へ向かっていく。
中国(の康熙帝は、鄭氏台湾を滅ぼし、中国全土を直轄化した。ここから清王朝の全盛期に入っていく。
流れ
武断政治から文治政治へ
徳川家康や徳川秀忠は、戦国時代で実際に戦っている。しかし、徳川家光が生まれた頃には、戦国時代が終焉している。4代将軍家綱の時代になると、戦国時代を経験した人はすでになくなり、二代目三代目の時代に入っていく。
これに伴い、戦国時代に培ったカリスマ性による政治から、制度による政治に転換する必要があった。これが武断政治から文治政治への転換点である。
家光は、若いときに子を作らなかった。大御所として将軍を任せられることができずになくなった。幼い家綱を将軍に立て、異母兄弟の白川藩主保科正之に後を託した。
由比正雪の乱と明暦の大火
家綱が亡くなると、牢人たちによる倒幕未遂事件が起こる。これが、慶安事件(由比正雪の乱)である。
牢人とは、失業した武士のことである。失業の要因は、基本的に改易(お家取り潰し)である。基本は、大阪の陣などの戦に負けるか、武家諸法度違反によるものであった。しかし、17世紀半ばになると、お家断絶による改易であった。
お家断絶が急増した要因は、兄弟の数の減少もあったが、もう一つは、武家諸法度の中にある「末期養子の禁」があった。末期養子とは、主君(大名)が急死した際に、他家から養子をもらうことである。戦国時代、有力大名は、養子を送り、相続により領土を拡大する戦略があった。そのため、武家諸法度では、養子戦略により外様大名が勢力拡大をしないように、養子について取り決めをしていた。その一つが、「末期養子の禁」である。
慶安事件があると、「末期養子の禁」を緩和した。
しかし、家綱の時代には、もう一つ事件が起こる。57年の明暦の大火である。江戸の大部分が消失。このとき、家綱は、江戸城の再建よりも町の復興を優先した。そのため、天守閣を生検せず、その資金を江戸の復興に回した。それでも、幕府は莫大医の支出を要した。
さらに、江戸に住む旗本・御家人の生活も困窮。商人から借金をするようになった。町人と武士の金銭トラブルが急増。61年に相対済令が出された。
63年、武家諸法度を改定。殉死を禁止。武断政治から文治政治への転換がはかられた。
徳川綱吉
80年、徳川綱吉が将軍に就任した。綱吉の最大の政策は、87年に出された生類憐みの令である。これは、極端な動物愛護の政策で言われることが多い。しかし、その背景には、仏教や儒教を重視した綱吉の政治感が現れている。
また、綱吉の時代に、世襲政治から官僚政治への転換も行われた。
正徳の治へ
18世紀初頭に徳川綱吉が亡くなる。儒学者である新井白石を中心とした正徳の治が始まる。
政治
武断政治から文治政治へ
51年、由井正雪の乱が発生。これを受けて末期養子の禁を緩和した。
63年、武家諸法度改定。殉死を禁止した。
80年、徳川綱吉が将軍に就任。徳川綱吉は、学問に熱心で、儒学や仏教を尊んだ。湯島聖堂
武家諸法度を更に改定。「文武弓馬の道に、・・・」から「文武忠孝に励み、・・・」に改定した。
文治政治によって、将軍の権威付の方法も代わった。それまでは、武力と改易で、将軍の権威を占めていた。しかし、文治政治の時代に入ると、武家諸法度の発布と領地宛行状の発行という儀礼によって将軍の権威を高めるようになった。
また、綱吉は、代官の世襲制を廃止、人事権で将軍の権威を高めた。また、生類憐みの令に対して厳罰処置を行うことで、武士や庶民の忠誠心高めた。
財政難
初期江戸幕府の収入源は、主として2つあった。
- 幕府直轄領からの年貢収入
- 鉱山の収入
17世紀半ばになると、鉱山の枯渇が問題になった。
さらに、57年に明暦の大火が発生。江戸復興のために幕府の支出が増大した。
綱吉が将軍に就任すると財政改革が行われた。
佐渡奉行であった荻原重秀は、金貨の改鋳を実施。金の含有量を減らし、金貨の枚数を増やした。
この功績が認められ、新設された勘定吟味役に就任。勘定吟味役は、幕府直轄領の管理を行う代官・郡官の管理を行った。
荻原重秀は、勘定奉行に昇格すると、勘定吟味役を廃止。勘定奉行が兼任した。
新井白石の正徳の治が始まると、荻原重秀は解任。金貨の含有量は元にも出され、勘定吟味役が復活した。
将軍と老中
80年、4代将軍家綱死去した。ここで、江戸将軍家の直径は途絶えた。家綱には、3人の弟がいた。次男は、幼くしてなくなった。三男は、甲府徳川家を創設。息子に相続されていた。四男は、館林徳川家を創設していた。
山梨県は、金鉱山がある重要拠点であると同時、有力大名家の武田氏の拠点であった。甲府徳川家は、家康の九男の義直が初代藩主になった。その後、家光の弟がこの地を相続。義直は、名古屋へ移封になった。これが尾張徳川家の始まりである。家光の弟は、素行が悪く、お家取り潰しになった。その後に入ったのが家綱の弟であった。
館林は、現在の群馬県に当たる藩である。家康の江戸の移封のさいに獲得した領地である。当初、関ヶ原の戦い以前は、真田氏、上杉氏の最前線の地域である。この地には、徳川四天王の一人である榊原氏が置かれた。榊原家は、陸奥白河藩へ移封になり、直轄領になっていた。
大老の酒井忠清は、鎌倉幕府のように皇室から将軍を迎えようとした。しかし、徳川御三家の水戸徳川家二代目藩主水戸光圀が反対。館林徳川家の綱吉を将軍に迎えた。
徳川綱吉は、大老の酒井忠清を解任。老中の堀田正睦を大老に昇格させた。
徳川綱吉も、家綱と同じように子どもに恵まれなかった。そのため、仏教に帰依するようになった。ここで出されたのが「生類憐みの令」で有る。
84年、大老堀田正が江戸城内で刺殺される事件が発生。これにより、大老制度を廃止し、側用人制度を導入した。この側用人についたのが、館林藩時代からの家臣である柳沢吉保である。
側用人は、将軍の秘書である。それまで、将軍が直接老中に命令を出していた。しかし、側用人が将軍の代わりに、将軍の意向を老中につたるようになった。
結局、綱吉も後継者なく死去した。6代目は、甲府徳川家から家宣を迎えた。
幕府(中央)
概要
幕府の機構は、家光の時代にほぼ完成した。
大老
臨時の最高職。将軍の後継者指名など重要事項のみ意思決定に参加する。幕末の井伊直弼が
大老は、井伊家、酒井家、土井家、堀田家の四家が選ばれる。この四家は大老四家といわれる。しかし、大部分が井伊家か酒井家から選ばれた。
老中
平時の最高意思決定機関。現在でいう内閣に相当する。常時は、月番制で担当の老中が判断。しかし、重要事項は、合議で決定した。譜代大名数名で構成された。
老中の筆頭は、老中首座と呼ばれた。18世紀の財政難になると、財政を取り扱う老中の重要性は高まった。三大改革期の田沼意次、松平定信、水野忠邦はみな、老中であった。
ペリー来航時の阿部正弘も老中首座であった。
老中首座の下には、以下の役職があった。
- 大目付 大名の監視(現在でいう、総務大臣<地方行政>)
- 町奉行 江戸の行政、裁判(現在でいう、都知事)
- 勘定奉行 幕府の財政管理(現在でいう、財務大臣)
- 遠国奉行
若年寄
老中の補佐。主として旗本の監視を担当。譜代大名が就任した。
側用人
将軍の秘書。綱吉の時代に設置。将軍の安全を図るために設置。将軍の代わりに、重要会議に設置した。将軍直下で、旗本が就任した。
大目付
大名の監視役。老中の管理下に置かれ、旗本が就任した。
目付
旗本・御家人の監視役。旗本を統括した若年寄の下に置かれ、旗本が就任した。
勘定所と三奉行
勘定所は、裁判の最高機関である。現在でいう、最高裁判所に当たる。老中に加えて、裁判を管轄する寺社奉行、町奉行と勘定奉行で構成される。
寺社奉行
宗教や文化・芸術を扱う奉行である。現在で言う文部科学省である。幕府の儀礼も取り扱う。さらに、宗門人別改帳を寺社が管理していた。宗門人別改帳は、戸籍の代わりにもなった。
そのため、戸籍や結婚、通行手形の発行も寺社奉行の管轄であった。そのため、法務省の役割も担った。
譜代大名が就任した。
町奉行
町奉行は、簡単に言うと東京都知事である。行政のほか、警察、商業、裁判を管轄した。大岡忠相(18世紀前半)や遠山金四郎(19世紀前半)が代表格である。多岐にわたる業務範囲のため、かなりの激務であった。
同心は、町奉行の下に置かれ、江戸の警察業務を担った。
旗本が担当し、老中の下に置かれた。
勘定奉行
江戸幕府の財政を取り扱う奉行である。現在でいう財務大臣である。老中の下に置かれ、旗本が就任した。
収入も取り扱うので、鉱山の管理や年貢の収入も管轄した。そのため、年貢収入を取扱う代官・郡代の管理も行った。
勘定吟味役
勘定吟味役は、会計監査を行う部署である。財政難になった綱吉の時代に設置。
勘定奉行から独立し、老中の直下に置かれた。旗本が就任した。
財政難になった綱吉の時代に設置された。このときは、臨時の役職で荻原重秀がが勘定奉行に就任すると廃止された。しかし、正徳の治が始まると、勘定吟味役が復活。常設の機関になった。
幕府(地方)
京都所司代
京都所司代は、鎌倉幕府の六波羅探題に相当する役職である。朝廷の監視と西国大名の統制を行った。
地方の筆頭の役職で、将軍直轄の役職である。譜代大名が就任した。
幕末になると、松平容保が就任。新選組を設置した。
遠国奉行
遠国奉行は、奉行と城代で構成される。奉行は、幕府の直轄地のうち、長崎や佐渡など重要な拠点に置かれた。
城代は、江戸幕府がもつ城の管理を任された。駿府(静岡)の駿府城、京都の二条城と大坂の大阪城に置かれた。
通常は、長崎奉行、佐渡奉行のように呼ばれる。しかし、城代が居るところは、城代と区別するため、京都町奉行のように言われた。
老中の下に置かれ、旗本が就任した。
代官郡代
遠国奉行の管轄外の幕府直轄地は、勘定奉行が管理した。ただ、勘定奉行の代わりに、代官、郡代を派遣した。
代官、旗本は、もともと旗本が世襲していた。
しかし、綱吉が、勘定吟味役を使い、会計監査を実施。これにより、代官郡代の不正が発覚。世襲制度を廃止し、勘定奉行による人事で派遣されるようになった。
朝廷
朝廷は、権威付によく使われた。
55年、後水尾条項が
綱吉の時代に入ると、いくつかの朝廷儀式を復活した。また、禁裏御料(朝廷保有の農地)を増やし、朝幕調教路線を示した。
外交)鎖国と4つの口
鎖国
長崎では、オランダと清王朝と交易を行っていた。オランダは居住区を出島に限定した。一方、中国人は長崎市中に住むことが認められた。
中国が明王朝の時代は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の関係で国交は断絶していた。17世紀なかば、清王朝が勢力を伸ばすと、反清王朝の勢力が台湾に拠点をおいた。そのため、南シナ海は緊張状態になった。そのため、外国船も含めて南シナ海の交易は縮小した。康熙帝が中華統一。これにより、清王朝との交易が盛んになった。
ただ、この時点で薩摩藩は勝ち馬に乗ろうと考えていた。第2次長州征討で長州藩が劣勢であれば、薩長同盟を反故にして幕府側に付き、幕府側が劣勢であれば、薩長同盟を利用して長州側につき倒幕に動くつもりでいた。これは、薩摩藩だけではない。朝廷も同じように考えていたものと思われる。
幕府は、第1次長州征討を受けて、領地の削減を命じた。攘夷派政権の長州藩は、これを拒否。66年6月、第2次長州征討が始まる。幕府が劣勢。将軍家茂の死を理由に撤兵した。将軍後見役の一橋慶喜が十五代将軍についた。
66年末、孝明天皇が死去。若き明治天皇が即位した。孝明天皇は、過激な倒幕を好まんでいなかった。そのため、過激な攘夷派は制止されていた。しかし、明治天皇になると、その静止がなくなった。
4つの口
江戸幕府は、幕府直轄の長崎での交易のほか、3つの藩に海外との交易を認めていた。
長崎 | 幕府直轄(長崎奉行) | オランダ(東南アジア) 清王朝(中国) |
対馬 | 対馬藩(宗氏) | 李氏朝鮮 |
鹿児島 | 薩摩藩(島津氏) | 琉球王国( |
函館 | 松前藩(蠣崎氏) | アイヌ(北海道) |
清王朝の中華統一
北海道)シャクシャインの戦い
67年、新将軍徳川慶喜は、フランスの援助の下、幕府の再建に取り組んだ。
一方、薩摩藩は、長州藩とともに武力倒幕を決意。調停に倒幕の勅許を求めた。
これに対抗したのが、土佐藩である。土佐藩は公武合体の立場を取った。藩士の後藤象二郎や元藩士の坂本龍馬らが、前藩主の山内容堂を通して、幕府に大政奉還を進言。薩摩藩らの武力倒幕に先んじて、政権を朝廷に返還する。その後、徳川家を中心とした雄藩連合政権を模索した。
そして、10月14日、徳川慶喜は、大政奉還の上奏を朝廷に提出した。
同じ14日、急進派公家の岩倉具視らと結んだ薩長両藩は、倒幕の密勅を手に入れた。しかし、大政奉還の上奏によって、無効になった。
経済
都市
航路
71年、河村瑞賢が東廻り航路を開拓。
三越開業
73年、三井高利が京都と江戸(日本橋)で呉服店である越後屋を開業した。これが、現在の三越である。
農村
49年、慶安の御触書
73年、分地制限令
87年4月、田畑永代売買の禁を再令
農具の近代化が進んだ。しかし、大型農具を使った大規模農場を作ることはなかった。
- 備中鍬 鉄製の農具(鍬・くわ)で深耕用
- 千歯扱き 脱穀用の農具
- 唐箕・千石どおし 選別用具
- 踏車 灌漑用の器具
また、肥料の近代化も進んだ。江戸などの都市周辺部では下肥(げひ)を使用し、綿などの商品作物が取れる裕福な農村では、遠隔地の干鰯(ほしか)などを使った金肥(きんぴ)を使用した。
農業書の作成も進んだ。
17世紀前半 | ー | 清良記 | 新しい栽培技術 新しい農業知識 |
17世紀末 | 宮崎安貞 | 農業全書 | 最初の体系的農書 |
19世紀初頭 | 大蔵永常 | 農具便利論 交易国産考 |
これらを変えるのは、近代農具、高級肥料や農業書によって、農業では多額の投資が必要になった。これにより、18世紀に入ると農家の間で格差が広がっていった。
米は、2つのルートで市場に流れる。年貢として藩に納付。藩が商人に売るルートである。もう一つは、農民が余剰生産した農産物を直接商人に売却するルートである。
さらに、17世紀半ばに、中国産生糸の輸入がストップ。この時期に生糸の国産化が進んだ。
勘定奉行荻原重秀と元禄小判
江戸幕府の収入源は、幕府直轄領からの年貢収入と鉱山の収入である。
戦国大名は、鉱山開発を勧めていた。安土桃山時代、豊臣秀吉は、主要な鉱山を独占。徳川家康も天下を取ると主要な鉱山を独占した。
江戸幕府は、鉱山で得た金銀で様々なものを輸入した。
しかし、17世紀後半になると、鉱山が枯渇し始めた。
90年、荻原重秀が佐渡奉行に就任
95年、元禄小判
96年、荻原重秀が勘定奉行に就任
文化)元禄文化
護国寺
井原西鶴
88年、日本永代蔵
松尾芭蕉
89年、奥の細道の旅に出発。
湯島聖堂
綱吉は、将軍になる予定はなかった。そのため、学問をたたきこまれた。そのため、将軍に就任すると、儒教を重視した。
90年、林羅山の私塾を江戸の湯島に移転。これが湯島聖堂である。現在、その近くには東京大学がある。
歌舞伎
52年、若衆歌舞伎を禁止。
73年、初代市川團十郎が荒事を始める。
12月、イギリス・フランスの公使と交渉。自国民保護のため、旧幕府軍を事実上の政権であることを認めた書面を交わした。このため、榎本武揚の五稜郭軍は、蝦夷共和国と呼ばれることがある。
翌69年5月、黒田清隆(さつま)率いる新政府軍が、五稜郭を攻める。五稜郭政府は降伏。これが箱館戦争である。
その他
関孝和の算術