18世紀前半の日本 米将軍吉宗と享保の改革

前回の復習 18世紀後半の日本

 18世紀の日本は、江戸時代。18世紀後半は、江戸三大改革の時代で、田沼政治と寛政の改革が行われたていた時期である。

 18世紀前半は、江戸三大改革の1番目である享保の改革を見ていきます。

  • 武断政治
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  • 幕末

三大改革は、3つの改革とその間の時代に別れる。

  • 享保の改革
  • 田沼政治
  • 寛政の改革
  • 大御所政治(化政文化)
  • 天保の改革

18世紀前半の国際情勢

 中国は、清王朝の時代。康煕帝、雍正帝、乾隆帝の黄金期の時代である。

 フランスは、太陽王ルイ16世の絶対王政期がおわり、ブルボン朝の衰退が始まる。また、イギリスとフランスは、アメリカとインドで植民地争奪戦を展開していた。

18世紀前半の流れ

綱吉と赤穂事件(忠臣蔵)

 18世紀後半は、犬将軍こと綱吉の時代である。生類憐れみの令など激しい改革を行った。そのため、庶民は、幕府に批判的であった。そのことを象徴する事件が起きた。

 それが02年に起きた赤穂事件である。高家である吉良上野介がお家取り潰しになった元赤穂藩士(赤穂浪士)に仇討ちされる事件である。その中心人物が大石内蔵助である。

 江戸の人々は、この事件を好意的に受け止め、喝采をした。その背景には、幕府への不満があったと思われる。

 48年には、赤穂事件を題材にした「仮名手本忠臣蔵」が歌舞伎や人形浄瑠璃で上演された。当時は、幕府の弾圧をおそれて、舞台設定を室町時代に変更している。

新井白石の正徳の治

 09年、綱吉がなくなると、高齢の家宣が就任。綱吉時代の人事を刷新した。側用人の柳沢吉保を解任。朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房を重用した。

 綱吉時代の政策を一新。生類憐れみの令を廃止。小判の金の含有量をもとに戻した。

 財政再建では、長崎の貿易を制限。

 さらに、将軍の権威を高めるために、朝廷や外交を利用した。

紀州藩主徳川吉宗

 16年、将軍家が断絶。御三家の1つ紀州藩主の徳川吉宗が将軍についた。

 側用人制度を廃止。間部詮房と新井白石は政治の中枢から外れ、紀州藩時代の側近などの実力者と次々登用した。その一例が江戸町奉行に就任した大岡忠相である。実力者を採用するために、使われたのが足高の制である。

享保の改革

 幕府財政再建のため、収入の拡大と支出の削減を行った。収入拡大では、定免法の採用や上げ米の制を導入。支出の削減では、倹約令や大奥の縮小、倹約令が行われた。

 町人や商人を利用した政策を実施した。目安箱の設置、商人資本を利用した新田開発、町火消がその一例である。

田沼意次の賄賂政治へ

 45年、徳川吉宗が崩御。側用人であった田沼意次が台頭していく。

政治

財政難

 江戸幕府の収入源は、2つある。

 1つ目は、幕領(幕府の直轄地)からの年貢収入である。年貢収入は、基本的に藩の収入である。しかし、日本各地に幕府の直轄地があった。その地に旗本を代官・郡官として派遣。年貢を徴収した。この代官・郡官を管理したのが幕府の財政を管理する勘定奉行であった。

 もう1つの収入源は、佐渡金山や石見大森の銀山からの鉱山収入である。16世紀後半(安土桃山時代)になると、貨幣経済が浸透した。そのため金山や銀山の鉱山収入は重要なものであった。徳川家康は、17世紀に江戸幕府を開くと、主要な鉱山を幕府の直轄地にした。

 しかし、17世紀後半になると、鉱山が枯渇した。これが幕府に財政を苦しめた。これと同じことが世界的にも起きている。スペインは、ポトシ銀山が枯渇。財政難になっていく。

 さらに、火事などの災害により、幕府の支出も増大した。その一例が、17世紀なかばに起きた明暦の大火である。

赤穂事件

概要

 赤穂事件の始まりは、01年に始まる。3月、江戸城内の松の廊下で浅野内匠頭が高家である吉良上野介を刀傷を追わせた。吉良上野介は一命をとりとめた。

 浅野内匠頭は、即日切腹。赤穂の浅野家は改易(お家取り潰し)の処分になった。赤穂藩士は浪人になった。現代風に言えば、会社で不祥事が発生。会社は倒産。社員は失業したということである。一方で、被害者側の吉良上野介はお咎めなしであった。

 江戸城内では、事情を知っている人のでこの処分が妥当と考える。しかし、それ以外にのものはその事情を知らない。問題がおきれば、「喧嘩両成敗」で双方が処分されるのが妥当である。吉良上野介が高家であるからお咎めなしとの扱いを受けたのは、高家と考えられた。現代風に言えば、上級国民だからお咎めなしと考えられた。

 翌02年12月14日、赤穂浪士(元赤穂藩士)47名は、吉良上野介邸を襲撃。吉良上野介を殺害。その首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に捧げた。

 その後、赤穂浪士たちは、幕府に出頭、複数の大名家で預かり処分になり、切腹した。

 生類憐れみの令で苦しんだ江戸の人々は、赤穂浪士の討ち入りは瞬く間に広まった。その後、この事件は歌舞伎や人形浄瑠璃の題材に使われた。その代表例が48年の「仮名手本忠臣蔵」である。

高家とは

 高家とは、儀式や典礼を行う旗本である。多くは、室町時代や安土桃山時代の大名家で、江戸時代に大名に慣れたなかった家柄である。吉良家のほかに、今川家や織田家がある。

お家取り潰し(改易)とは

 改易とは、元々は武士身分を剥奪する刑罰である。大名が改易されると、領地は幕府に没収され、城を明け渡さなければならない。

 改易されると、その藩の藩士は失業した。他家へ士官(就職)できたものもいたが、多くは町人になった。商人や文化人(劇作家など)で成功するものも多かったが、貧困生活を送ることが多かった。

新井白石の正徳の治

 綱吉がなくなると、新井白石の政治が始まる。

 綱吉時代の政策を次々廃止した。生類憐れみの令を廃止。正徳小判を鋳造。金の含有量を戻した。

 また、銀の抽出を防ぐために、長崎の貿易を制限した。

徳川吉宗と享保の改革

収入を増やす

 徳川吉宗は、財政再建に努めた。まずは、幕府の税収を高めた。

 まずは、上げ米の制である。大名に対して、1万石につき100石を幕府に納めることとされた。

 次に、検見法から定免法に変更された。検見法は、毎年収穫量を把握して年貢料を決定した。一方、定免法は、豊作凶作関係なく、毎年同額とされた。

検見法

将軍家

短命将軍

 五代将軍綱吉は、子に恵まれず崩御。六代将軍は、甥の家宣であった。家宣は、綱吉と後継者争いを展開していた。そのため、就任時にはすでに高齢で、すぐに後継者問題が発生した。

 後継者争いをした関係で、人員の総入れ替えが行われた。、

 後継者は、幼少の息子がいた。病弱のため、将軍になれれるか問題があった。そのため、御三家の尾張藩から将軍を迎えることを検討した。しかし、将軍の側近たちは反対。幼少の息子を将軍家継につけた。

 幼少の将軍に権威を与えるため、朝廷や外交を利用した。

側用人

 側用人は、将軍の秘書である。当初はただの秘書であった。ただ、綱吉の時代に大老の暗殺事件が発生。安全のために、重要な会議には、将軍ではなく側用人が代理で出席するようになった。

 そのために、影響力が大きくなった。

 ただ、吉宗の時代は側用人制度は停止された。しかし、9代将軍家重が病弱であったため、側用人制度は復活した。

御三家

 17年、幼少の家継が成人になる前に崩御。将軍家は断絶した。次の将軍になったのが、紀州藩の財政再建に成功した吉宗であった。

 御三家は、親藩の筆頭の3つの家である。尾張藩、紀州藩と水戸藩である。徳川家康の息子(秀忠の弟)たちが祖になる。世代的には、三代将軍家光と同世代になる。将軍家が断絶した場合は、この3家から将軍を出すことにしている。

 尾張藩は、徳川家康の9男が起こした藩である。織田信長の出身地である尾張(名古屋)を拠点にした。

 紀州藩は、徳川家康の10男が起こした藩である。紀伊(和歌山県)と伊勢(三重県)を統治した。

 水戸藩は、徳川家康11男が起こした藩である。北関東最大の外様大名である水戸(茨城県)を秋田に転封し、成立した藩である。

 元々は、水戸藩ではなく駿河藩が御三家であった。しかし、駿河藩が1代で断絶。代わりに昇格したのが水戸藩である。そのため、基本的に将軍を出すことはできないとされていて、位も1つ下になっている。一方で、歴代藩主は江戸城に常駐することが多かった。そのため、水戸藩主は、副将軍と呼ばれた。

 御三家は、徳川姓を名乗ることが許され、将軍家と同じ三つ葉葵の家紋が認められた。

御三卿の設置

 徳川吉宗が将軍になると、将軍家と尾張徳川家が対立。

 御三家にかわり、御三卿を設置した。吉宗の子と孫を祖とし一橋家、田安家、清水家である。御三卿は領地がなく江戸城内に屋敷を設けていた。また、後継ぎがいなくなると、養子を迎えることがあった。

朝廷

赤穂事件と幕府の関係

 赤穂事件の始まりは

閑院宮家の設置

 新井白石は、将軍の権威を高めるために、朝廷の関係を強化した。

 閑院宮家を創設。将軍家継と皇女の婚約を実施した。

外交 貿易促進

長崎貿易の奨励

朝鮮通信使

 将軍の名称を、「日本国大君殿下」から「日本国王」に変更を求めた。

輸出の拡大

経済

金貨の変遷

 幕府が最初に作ったのが、慶長小判である。このときは、佐渡金山から取れた金で含有量のが高い小判が作られた。

 綱吉の時代になると、金山が枯渇。金の含有量を減らした元禄小判を作成した。

 しかし、新井白石の時代に、寛永小判は、金の含有量をもとに戻した。

農村の格差拡大

 享保の改革になると、豪農は豊富な資金を使って設備投資をして収穫高を増やした。一方で、貧農は設備投資ができないため、格差は拡大していった。

 この時代は、備中鍬などの農機具が次々発明された。また、高級肥料が登場した。

 また、享保の改革や藩政改革で商品作物の栽培が奨励され、大規模な投資が必要とされた。さらに、享保の改革が起こると、漢訳洋書の農学書が伝わり、商品作物の栽培が奨励された。

文化)元禄文化

新井白石と朱子学

 文治政治が始まると、幕府や諸藩は、儒学(朱子学)の勉強が奨励された。そのため、儒学者が藩政に関与することが多くなった。

 儒学者新井白石が政治に参加したのものこの時代である。

洋書輸入の禁をゆるめる

 享保の改革で、漢訳洋書の輸入制限の緩和を実施。西洋の農業や医学の本が次々輸入された。それにより、自然科学分野の研究が促進された。

 豪農たちは、農学書を購入し、