1830年代の日本 天明の大飢饉とモリソン号事件

前回の復習 1840年代の日本

 40年代の日本。江戸時代末期。老中首座の水野忠邦が天保の改革を実施。しかし、これが失敗。これによって幕府への批判が集中。53年の黒船来航をきっかけに、幕末へ向かっていく。

1830年代の国際情勢

 フランスで七月革命が発生。中東のオスマン帝国では、エジプト=トルコ戦争で

大塩平八郎の乱

大御所時代

 19世紀初頭は、11代将軍徳川家斉の時代である。この時期、幕府の支出が増加した。

 これにより、日本経済は活性化した。化政文化が花開いた。

 一方で、物価が上昇していた。しかし、都市部の収入も同様に高騰していたので、大きな影響はなかった。

天保の大飢饉

 33年、天明の大飢饉が起こる。

 天明の大飢饉は、江戸四大飢饉の一つである。

  • 17世紀半ばの寛永の大飢饉
  • 18世紀前半の享保の大飢饉
  • 18世紀後半の天明の大飢饉
  • 19世紀前半の天保の大飢饉

 この四大飢饉は、多くの死者を出すとともに、その後の幕政に大きな影響を与えた。天保の大飢饉で、化政文化が低迷。41年の天保の改革につながる。

 天保の大飢饉では、東北で甚大な被害が出ていた。

 寛政の改革の影響で、天明の大飢饉の時ほど死者を出すことはなかった。ただ、大御所時代のインフレで、江戸や大坂などの都市部の米価格は高騰した。

大塩平八郎の乱

 天保の大飢饉で、最も餓死者を出したのは大坂であった。

 商人は、米の買い占めに走り、幕府も大坂市民の救済よりも絵江戸市民の救済を優先した。

 37年、元役人の大塩平八郎が、貧民救済のために武装蜂起。わずか半日で鎮圧された。しかし、重要都市大坂で発生したことと、役人が首謀者であったことで、幕府に衝撃を与えた。

陽明学と大塩平八郎

 大塩平八郎は、大坂町奉行の元与力で、陽明学者であった。

 天領(幕府直轄地)の統治は、老中直下の勘定奉行(三奉行の一つ)が管理していた。勘定奉行は、各天領に郡代・代官を派遣して天領を統治した。

 これ以外に、江戸には町奉行、それ以外の主要都市には、遠国奉行が置かれた。いずれも、老中直下の組織である。大坂町奉行は、遠国奉行の1つであり、大阪夏の陣の翌年1616年に設置された。なお、〇〇町奉行と呼ばれたの3つで、大坂町奉行、京都町奉行、駿府町奉行(静岡)である。

 与力とは、奉行の下で働く職員で、今で言う地方公務員である。市役所職員・警察署職員・消防団員などの総称といえる。

 陽明学は、儒学の一派。16世紀初頭に成立した。当時主流であったのは、朱子学であった。しかし、朱子学が実戦的ではないとの批判から、知行合一を掲げた学問である。

大坂

 大坂は、豊臣家の統治領であった。しかし、16世紀初頭の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、天領(幕府の直轄地)となった。江戸幕府は、大坂城代と大坂町奉行をおいて統治した。

 安土桃山時代、大坂は近畿地方最大の港町であり、多くの有力商人が集まっていた。江戸時代に入っても、有力商人は、江戸に行かずに大坂にとどまった。

 そのため、多くの藩は、年貢で集めた米を江戸ではなく大坂に輸送。大坂で米を現金に変えていた。そのため、大坂に堂島米市場が誕生した。

天保の改革へ

 天保の飢饉や大塩の乱は、幕府に大きな衝撃を与えた。これが、41年の天保の改革につながる。

モリソン号事件

モリソン号事件

 37年、大坂で大塩の乱が起こっていた頃、江戸近郊でも事件が起きていた。それがモリソン号事件である。

 アメリカのモリソン号は、漂流民の送還と開国交渉のために江戸湾(東京湾)に侵入。浦賀奉行(20年に設置)は、モリソン号を砲撃し、撃退した。

 このあと、琉球王国を統治する島津藩(鹿児島)に向かうも、ここでも威嚇射撃が行われる。

 アメリカは、その後、46年にピットルを、53年にペリーを浦賀に派遣した。

異国船打払令

 では、浦賀奉行も島津藩もなぜ、モリソン号を砲撃し、上陸を認めなかったのであろうか。

 これは、27年に異国船打払令が出されていたためである。

蛮社の獄

 モリソン号事件が起こると、多くの蘭学者が批判した。その代表が、シーボルトの弟子である高野長英である。その他に、渡辺崋山もこれを批判した。

 39年、幕府は、渡辺崋山、高野長英など、幕府を批判したものを処罰した。これが蛮社の獄である。

 しかし、アヘン戦争で清王朝が敗北すると、清王朝は彼らの意見を真摯に受け入れ、異国船打払令を緩和した。

大御所政治

徳川家斉

 徳川家斉は、1787年から37年まで50年間、将軍に在位した。これは、鎌倉幕府・室町幕府を含めて最長である。

 また、家斉は、たくさんの子供を授かった。その多くは養子や結婚で他の家にだされた。この時期に、多くの外様大名が将軍家と親戚関係になった。

財政拡大 or 倹約

 徳川家斉の初期は、寛政の改革の時期である。倹約派の老中が中心であった。しかし、松平定信が失脚し、寛政の改革が終了すると、倹約派の老中が次々退陣。かわりに、財政拡大派の老中が中心になった。

 彼らは、金貨の品質を落として、金貨の流通量を増やした。これにより、物価が上昇した。

隠居(大御所)

 大塩の乱が起こった37年、家斉は在位50年を機に隠居。将軍職を息子との家慶に譲った。

 しかし、将軍職を譲ったあとも、政治を取り仕切り、家慶はお飾りの将軍であった。そのため、天保の大飢饉で混乱しても、改革に踏み出せなかった。

 なお、将軍職を譲った前将軍は、大御所と呼ばれた。そのため、この時代の人は、徳川家斉を大御所と呼ぶようになり、その後、将軍時代も含めて家斉が統治していた時代を大御所時代と腰部用になった。

 41年、将軍家斉が死去。天保の改革が始まった。

老中首座水野忠邦

 水野忠邦は、九州唐津藩(佐賀県)の藩主であった。唐津藩は、肥前藩とともに長崎の警備に当たる任務を追っていた。この時期に西洋砲術に精通した高島秋帆と親交を深めた。

 17年に浜松藩(静岡県)に転封。これにより、石高は下がったが、幕府の要職につける可能性が高まった。25年に大阪城代、26年に京都所司代につく。28年、ついに西の丸老中(次期将軍家慶の側近)として江戸城に入る。

 34年、化政バブルを推進した老中首座水野忠成がなくなると、老中に就任。39年、老中首座となった。しかし、当時は大御所である家斉が実権を握っていたため、形だけの老中首座であった。41年に、大御所徳川家斉が死去。老中首座水野忠邦は、天保の改革を始める。