18世紀後半の日本 田沼政治と寛政の改革

前回の復習 1800年代の日本

 日本は江戸時代。江戸時代は、17世紀〜19世紀半ばまで250年続いた。江戸時代は、4つの区分に分けられる。

  • 17世紀前半 武断政治の時代
  • 17世紀後半〜18世紀初頭 文治政治の時代
  • 18世紀〜19世紀前半 3大改革の時代 ←今回はここ
  • 19世紀半ば ペリー来航

 3大改革の時代は、緊縮財政を行った3つの改革とその間にあった財政拡大期で構成される。

  • 徳川吉宗の享保の改革
  • 田沼意次の財政拡大期 ←今回はここ
  • 松平定信の寛政の改革 ←今回はここ
  • 徳川家斉の財政拡大
  • 水野忠邦の天保の改革

18世紀後半の国際情勢

 ヨーロッパは革命の時代。七年戦争、アメリカ独立戦争、そしてフランス革命が起きた時期である。イギリスは、七年戦争に勝利。英仏植民地戦争も終結した。これにより、大英帝国の建設が本格化していく。さらに、イギリスで産業革命が起こる。ここからヨーロッパとアジアの力関係が変わった時期でもある。

18世紀後半の日本

三大改革の時代

 18世紀になると、江戸幕府は財政難に見舞われた。そのため、18世紀〜19世紀前半にかけて、多くのリーダーが江戸幕府の財政を再建するために努力した時代である。

18世紀前半の享保の改革

 18世紀前半は、徳川吉宗の時代。

 最初の三大改革である享保の改革を実施した。享保の改革は、収入の拡大と支出の削減を並行して行った。その後、収入拡大を重視したのが田沼意次であり、支出の削減を重視したのが松平定信である。

田沼政治

 田沼意次は、紀伊藩の藩士の家に生まれる。紀伊藩主の吉宗が将軍になると上京。9代将軍家重、10代将軍家治の信頼が扱った。

 58年、百姓一揆の裁判に当たらせるために大名に引き上げられる。60年に家重が将軍就任。田沼意次は、67年に側用人に、72年に老中に昇格した。

 商人を利用して経済活性化し、幕府の収入を拡大させようとした。その中心が株仲間の推奨であった。

 株仲間は、享保の改革で公認された。同業者の商人の集まりで、営業地域ごとで価格協定を結んで、利益を確保した。幕府は、株仲間以外の参入を規制する見返りに、運上・冥加を受け取った。これが幕府の新たな収入源になった。

天明の大飢きん

 田沼政治も終焉の時を迎えた。

 82年に始まる天明の大飢きんである。5年に渡る世界的な凶作である。フランスで小麦の大凶作。これがフランス革命に繋がった。

 享保の改革で、検見法から定免法に変更。凶作でも年貢は減らなかった。これにより、農家の生活は著しく悪化した。幕府への批判も深まった。

 田沼意次は、商人を使って大規模な新田開発を行った。印旛沼・手賀沼の干拓事業である。しかし、これらは失敗した。

 83年、群馬県(上野国)の浅間山が噴火。天明の大飢きんは長期化した。

 84年、若年寄だった田沼意次の息子が江戸城内で刺殺。

 85年、大飢きんを重く見て、大老を設置。彦根藩井伊家の藩主が就任した。

 86年7月、利根川の大反乱。印旛沼の新田開発が失敗。8月、10代将軍家治が崩御。老中田沼意次は失脚した。

 87年5月、江戸と大阪で大規模な打ちこわしが発生。6月には、京都で御所千度参りが行われる。これを受けて、朝廷は、禁中並公家諸法度を破って、幕府に救援要請をした。幕府は、これに応じ、京都市民に米を配った。

松平定信の寛政の改革

 田沼意次の後継についたのは、松平定信であった。松平定信は、吉宗の孫で奥州白河藩の藩主であった。そのため、一番深刻であった東北で天明の大飢きんを経験した。

 松平定信の政策は、2つである。1つ目は、幕府の歳出削減である。2つ目は、貧困対策である。

大御所政治へ

 寛政の改革による倹約令や風俗のとりしまりで、幕府内外で幕政への不満が高まっていた。

 そのような中で、尊号一件事件で、将軍徳川家斉と老中松平定信の関係が悪化。これにより、松平定信が失脚。大御所政治へ移行していく。

政治)田沼意次と松平定信

田沼意次の政治

 田沼意次の政治は、2010年代のアベノミクスである。景気を回復させて、税収を安定させ、財政再建をしようとする考え方である。具体的な政策は、以下の通りである。

 1つ目は、株仲間の奨励である。株仲間とは、同業種の商人組合である。幕府は、株仲間に独占販売権を与える代わりに、運上・冥加(営業税)を受け取った。田沼意次は、これを奨励して、運上・冥加を新たな収入源とした。

室町時代安土桃山時代享保の改革田沼時代天保の改革
16世紀前半16世紀後半18世紀前半18世紀後半1840年代
寺社などがを設置織田信長の楽市楽座令で座は禁止された。新規参入の促進によって、商業を活性化させた。非合法の商人の組合を株仲間として合法化(公認)した。株仲間は、運上・冥加を幕府に納税した。株仲間の結成を奨励。運上・冥加の増やした。インフレ抑制のため、株仲間を解散させた。

 2つ目は、南鐐二朱銀の発行である。

 江戸時代は、3つの貨幣が使われた。金貨、銀貨、銭貨である。金貨は、佐渡金山のある東日本(江戸など)である。一方、銀山は、石見銀山(大森石見)のある西日本(大坂・京都など)で利用された。長崎で行われる国際取引にも銀が使われた。銭貨は、少額取引で全国で流通した。

 南鐐二朱銀の導入により、東日本と西日本の流通を盛んにしよとした。

 3つ目は、長崎貿易の奨励である。これは、後述の外交編で詳細を語ります。

寛政の改革

寛政の改革は、3つの柱で構成されていた。

①支出削減

 最初は、幕府の財政再建である。享保の改革と同様に倹約令を出した。これは、幕府や武家だけでなく町人まで求めた。そのため、風俗の取締に繋がった。

 また、旗本・御家人九歳のために、棄捐令(きえんれい)を出した。これは、商人(札差)に対して、旗本や御家人の借金の帳消しを依頼した。

② 飢きんの対策

 寛政の改革は、天明の大飢きんの影響を受けている。

 農村では、囲い米制度を導入。それぞれの村で、米の備蓄をするようになった。また、江戸では、七分積金を導入。町費の節約を命じ、その7割を積立させ、飢きんや災害のときに貧民の救済に当てさせた。

 また、農村に対しては、資金の貸付を行って、荒廃した田畑を復旧させた。さらに、旧里帰農令(後述)を使って、江戸などの都市部から人を送り込んだ。

③都市の失業問題

 寛政の改革以降では、都市の失業問題が課題になっていた。

 寛政の改革では、2つの政策が行われた。

 1つ目は、旧里帰農令である。都市の失業者に、農村へ帰ることを奨励し、資金援助した。19世紀前半の天保の改革では、これを強化した人返しの令が発令される。

 2つ目は、石川島に人足寄場を設置したことである。無宿人(ホームレス)を人足寄場に強制収容し、職業訓練を実施した。また、無宿人を

将軍

 9代家重、10代家治の時代である。

 79年、家治の息子が急死。81年、御三卿の一橋家から養子を迎える。後の11代将軍家斉である。

 このとき、将軍候補に上がったものがもう1人いた。後の老中松平定信である。松平定信は吉宗の孫で田安家の人物である。しかし、次男のため、奥州白河藩に養子に出された。長男がなくなると、田安家に戻れるように手配すると、老中田沼意次は、これを拒否した。これは、コントロールしやすい幼少の将軍を立てたい田沼意次の意図があったものと思われる。

京都 朝廷

宝暦事件

 18世紀後半の朝廷は、後継者問題で混乱していた。

 56年、宝暦事件が発生。徳大寺家などの中堅クラスの公家が、尊王論系の学者と結びついた改革運動である。公家の役職はほぼ家で決まっていた。公家の殆どが藤原家で占められていた。とくに、摂政関白になれるは、五摂家(近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家)のみであった。当時の関白一条道香は、幕府(京都所司代)と連携。徳大寺家などの中堅公家は、謹慎処分を受けた。

 この事件により、中堅公家と幕府の関係は悪化。長州藩、水戸藩などの雄藩に連携するようになった。

光格天皇の即位

 62年、桃園天皇が崩御。皇太子がまだ幼かったため、姉が後桜町天皇として即位した。これが、2024年時点で最後の女性天皇である。

 70年、皇太子が成長したので、後桜町天皇は譲位した。甥の後桃園天皇が即位した。

 79年、後桜町天皇は、皇太子を残さずに崩御。閑院宮家から天皇を迎える。それが光格天皇である。ちなみに、閑院宮家は、18世紀初頭に新設された最も新しい宮家である。

光格天皇の政策

 光格天皇の時代は、災害の時期である。80年代の天明の大飢きんの最中であった。

 82年では、京都で大火事(天明の大火)が発生。御所が消失。仮御所で政務を継続した。

 87年、京都の人々が御所千度参りを行う。これを受けて、光格天皇は、禁中並公家諸法度を破って、幕府に救済要請。老中松平定信は、これを受けて京都で米の配布を行う。これにより、光格天皇は、京都の人々の支持を集めた。

 92年、光格天皇は、実父に尊号を送ろうとし、禁中並公家諸法度に従って、幕府にお伺いを立てた。老中松平定信は、慣例に従ってこれを拒否した。これにより、幕府と朝廷の間に亀裂が入る。これが、尊号一件である。

 ちなみに、養子から将軍に即位した家斉は、老中松平定信の政策を批判。この事件を契機に、松平定信は失脚した。

外交 貿易促進

田沼意次の輸出促進政策

 田沼意次は、長崎貿易を奨励。銅や海産物(俵物)の輸出の促進で銀を獲得しようとした。

 16世紀、ポトシ銀山を発見したスペインが覇権を握った。このとき重視されたのが重金主義である。しかし、17世紀に入ると、交易で銀をを獲得したイギリス・オランダが台頭した。輸出を増やし、貿易黒字を出すことで銀を集めた。これが貿易差額主義(重商主義)である。その代表格が大西洋三角貿易である。

 江戸幕府も、国際経済の流れに乗った。17世紀初頭(江戸幕府初期)は、国内の主要鉱山を独占。鉱山収入を幕府の重要な財源とした。しかし、17世紀後半になると、鉱山が枯渇した。そこで導入されたのが貿易差額主義(重商主義)である。

 主な輸出品は、銅と海産物である。海産物は、俵物(たわらもの)とよばれた。干しあわびやフカヒレなどの中華料理の高級食材が主な輸出品となった。

北海道探検(蝦夷地)

 海産物の重要性が高まると、海産物の産地である北海道(蝦夷地)の重要性が高まった。

 工藤平助は、『赤蝦夷風説考』で蝦夷地の重要性を説いた。

 そのため、田沼意次は、蝦夷地の探検を行った。その中心人物が最上徳内である。

ロシアのラスクマン

 92年、ロシア帝国のラスクマンが根室(北海道東部)に来航した。当時のロシア帝国はエカチェリーナ2世の時代である。ラスクマンは、ロシアの軍人である。日本の開港の要求した。また、ラスクマンは、日本人漁師である大黒屋光太夫を帰国させた。

 大黒屋光太夫は、伊勢(三重県)出身の船乗りであった。伊勢から江戸へ荷物を運ぶ途中に漂流。ロシア領のアラスカに漂着した。その後、ロシアの首都サンクトペテルブルクへ連行。ロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見。エカチェリーナ2世は、大黒屋光太夫の話を聞き、軍人ラスクマンを日本へ派遣した。

 田沼意次は、ロシアとの交易を模索していた。しかし、87年に失脚している。ときの老中は、松平定信に代わっていた。松平定信は、大黒屋光太夫の帰国は認めたが、ロシアとの交渉については、後日長崎で行う旨を伝えた。松平定信も、当時はロシアとの交易は検討対象に当たると考えたいたもの思われます。

 ロシアは、99年、アラスカ経営を行うロシア・アメリカ会社(ロシア版東インド会社)を設立。そのトップに付いたのが、レザノフである。レザノフは、04年に長崎へ来航した。

 松平定信は、レザノフの通商要求を拒否した。その理由は、ヨーロッパ諸国への警戒心が高まったためである。19世紀に入ると、フランス革命に乗じて、イギリスが東南アジアに勢力を拡大させようとしていた。

 最後に、ロシア帝国のシベリア開拓の歴史を見ていく。ロシアは、16世紀後半にシベリア探検を開始。17世紀後半に清王朝とネルチンスク条約を締結。清王朝とロシア帝国の国境を確定させた。18世紀前半、ロシア人探検家ベーリングがベーリング海峡を発見。アラスカに上陸。41年、アラスカをロシア領とした。

寛政異学の禁

 67年、新将軍徳川慶喜は、フランスの援助の下、幕府の再建に取り組んだ。

 一方、薩摩藩は、長州藩とともに武力倒幕を決意。調停に倒幕の勅許を求めた。

 これに対抗したのが、土佐藩である。土佐藩は公武合体の立場を取った。藩士の後藤象二郎や元藩士の坂本龍馬らが、前藩主の山内容堂を通して、幕府に大政奉還を進言。薩摩藩らの武力倒幕に先んじて、政権を朝廷に返還する。その後、徳川家を中心とした雄藩連合政権を模索した。

 そして、10月14日、徳川慶喜は、大政奉還の上奏を朝廷に提出した。

 同じ14日、急進派公家の岩倉具視らと結んだ薩長両藩は、倒幕の密勅を手に入れた。しかし、大政奉還の上奏によって、無効になった。

経済

農業の格差

 17世紀に入ると、金肥などの高級肥料や備中ぐわ、千歯こき、とうみなどの高級農具が登場。これらを購入するには、多額の資金を必要とした。

 さらに、漢訳洋書の輸入制限の緩和で農学書が次々販売。。さらに商品作物が奨励された。これらの購入のために、多くの農民が借金をしてまで、農学書を購入し、商品作物栽培にチャレンジした。

 成功したものは、巨万の富を獲得できたが、失敗したものは多額の借金を背負った。彼らは、田畑を売り、地元で小作人になるか、江戸へ移住した。

 一方、成功者は、失敗者の農地を購入。小作人に農地を貸出し、地主になって、農地の貸出料で生活するようになった。

 このころから村方騒動が始まった。村方騒動は、農民の間のいさかいである。小作人が豪農(地主)に対して起こした暴動である。

百姓一揆村方騒動
武士(役人)

農民
農民(地主)

農民(小作人)

 ただ、江戸時代は田畑永代売買の禁があったので名目上は、もとの地主のものとされていた。そのため、農地の本来の地主は不明な状態になった。明治時代の地租改正で、地主を公認した。

 享保の改革で、定免法に変更。凶作豊作に関係なく、税額が一定にされた。80年代に天明の大飢きんが発生すると、多くの農民が土地を売却。

江戸の失業問題

 江戸幕府成立当初(16世紀初頭)の江戸は、一地方都市の規模であった。後北条氏拠点である小田原のほうが栄えていた。

 3代将軍家光(16世紀前半)が参勤交代の制度を確立し、江戸に大名屋敷ができると、商人も江戸に支店を作るようになった。

 17世紀に入ると、吉宗(享保の改革)で株仲間を公認。17世紀後半になると、田沼政治で、株仲間が奨励。これにより、江戸に多くの豪商が登場した。

 同じ頃、農地を売却した農民が江戸に流入。豪商が奉公人として次々採用した。

 しかし、80年代の天明の大飢きんで江戸で大規模なインフレがはっせい。奉公人などの都市の貧困層は生活に困窮。豪商の家に強盗に入るようになった。これが打ちこわしである。87年には、江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。

 また、90年代に入り、寛政の改革が始まると、倹約令による不況が始まる。打ちこわしと寛政の改革による不況をうけて、豪商はリストラを開始。さらに、天明の大飢きんで江戸への移住者も急増していた。江戸は多くの失業者があふれ、治安が悪化した。

 そのため、寛政の改革で、失業対策と治安維持が重要になった。

金貸し、札差

 武士の給料は、米で支給された。しかし、幕府や大名が直接こ米を配ったわけではない。幕府や大名は、江戸や大坂に蔵屋敷に年貢を集め、商人に管理させた。資金が必要になったら、商人に依頼して蔵屋敷の米を売却して資金を調達した。

 給料も同様である。幕府や大名は、家臣(旗本・御家人)に給料を米でなく、札で渡し、蔵屋敷で受け取るように指示した。そのため、蔵屋敷で米を管理する商人は、札差(ふださし)と呼ばれるようになった。

 家臣は、札を札差に持っていくと、米で受け取らず、その場で米を売却して現金にして持ち帰っていた。

 16世紀後半、鉱山の枯渇等によって、デフレが発生。米価格が下落。武士の生活が困窮した。武士の給料を把握している札差たちは、武士相手に金貸し業を始めた。そのため、17世紀に入ると、武士と札差の金銭トラブルが問題になった。

 そのため、17世紀前半の享保の改革(吉宗)では、相対済し令を出し、幕府は札差と旗本・御家人のトラブルに関与しないこととした。そして、17世紀末の寛政の改革(松平定信)の時代には、棄捐令をだし、札差に旗本・御家人の借金の帳消しを要求した。

文化)

宝暦・天明文化

 18世紀前半の吉宗の時代、農村の格差が拡大。豪農が誕生した。さらに、吉宗・田沼期に、商人の発言力が拡大した。

 この時代の文化の中心は、豪農や商人が中心となった。

 また、庶民も文化を楽しむ余裕が出てきた。多くの滑稽本が出版された。

寛政異学の禁止

 しかし、寛政の改革では、90年5月に出版統制令が発令。多くの滑稽本が出版ができなくなり、宝暦・天明文化は廃れていった。

蘭学

 徳川吉宗は、漢訳洋書の輸入制限の緩和を実施。これにより、蘭学が発展。特に医学や農学などの自然科学分野の研究がかなり進んだ。

 藩医の杉田玄白・前野良沢らの「解体新書」
 平賀源内のエレキテル

国学

 古事記、日本書紀や源氏物語などの奈良・平安時代の書物の研究が進んだ。18世紀なかばの中心人物は、賀茂真淵である。

 その中で、尊王論が登場した。この考え方は、平安時代のように天皇を中心にした政治体制を求める考え方である。この尊王論は、幕府への不満の受け皿になった。

 51年に宝暦事件発生。尊王論派の公家が多数処罰される。

 この尊王論は、幕末の尊王攘夷論につながり、倒幕運動の精神的支えになった。