13世紀は、モンゴルの世紀である。今回は高麗王朝がモンゴル帝国に対してどのように対応していきたかを見ていきます。
13世紀の基礎知識
13世紀の東アジア情勢
13世紀初頭、中国大陸は南北に分裂していた。北には女真族の金王朝が、南には漢民族の宋王朝(南宋)が存在していた。この両国は、モンゴル帝国の侵攻を受けて滅亡する。
おなじころ、日本は鎌倉時代である。11世紀末に、源平合戦に勝利した源頼朝は征夷大将軍になり、鎌倉幕府をひらき、東国の支配権を獲得した。さらに東北の奥州藤原氏を滅亡させた。源氏の血統が途絶えると、摂関家や皇族から将軍に迎え、北条氏が実権を握った。
21年に承久の乱で幕府軍が勝利すると、鎌倉幕府の影響力は西国にも広がった。さらに、天皇の皇位継承にも影響力を持つようになった。
モンゴル帝国と元王朝
13世紀はモンゴルの時代である。06年にチンギス=ハンが即位。23年に2代目、オゴタイ=ハンが即位。32年には金王朝を滅ぼし、華北を統一する。46年に3代目グユウが即位。51年に4代目モンケ=ハンが即位した。
60年に、フビライ=ハンが即位すると、後継者争いが勃発。西側4ハン国と分裂した。67年に大都(現在の北京周辺)に遷都。71年に国号を元に改めた。
高麗王朝
日本侵攻
60年に、フビライ=ハンがハンの地位についた。フビライ=ハンは自らの権威付けのために領土拡大にいそしんだ。そのターゲット一つが日本であった。
フビライ=ハンは高麗を通じて、日本へ国書を送り続けた。国書は最初京都へ送られた。京都の皇室は、その対応を鎌倉幕府に依頼した。鎌倉幕府の実権は、北条時宗が握っていた。時宗は、フビライ=ハンの要求を無視。
73年、高麗の武人の反乱を鎮圧すると、フビライ=ハンは高麗に海軍の編成を命じた。翌74年、元王朝・高麗王朝連合軍は日本へ侵攻した(文永の役)。元王朝軍・高麗連合軍は1日だけ日本を攻撃して撤兵した。
元王朝軍は、再び和平の使者を鎌倉へ送った。時宗は、交渉に応じず、使者を殺害した。
76年、元王朝は、宋王朝の都である臨安に無血入城。中国大陸を統一した。そして、81年、元王朝高麗王朝連合軍は再び日本へ侵攻した(弘安の役)。この戦いには、明州のイスラム商人も参加した。しかし、戦を挑んだタイミングが最悪であった。暴風によってほぼ壊滅的になり、失敗した。これが神風(かみかぜ)の語源である。
フビライ=ハンは、3度目の日本侵攻に挑戦しようとした。しかし、多くの犠牲者を出したイスラム商人が味方することはなかった。94年にフビライ=ハンが死去。ハイドゥの乱が始まると日本遠征の話はなくなった。
元王朝に服従
23年、モンゴル帝国では、オゴタイ=ハンが即位。オゴタイ=ハンは、東アジアへの侵攻にも注力した。31年から、高麗遠征が始まった。翌32年には金王朝が滅亡している。
崔氏は、開城から江華島に移動し徹底抗戦を引いた。しかし、長期にわたるモンゴル軍との戦いで疲弊。文官を中心に和平派が台頭してきた。58年、和平派の文官が一部の武官を味方につけてクーデターを起こす。これにより、崔氏政権は分裂した。
崔氏政権崩壊後は、武官同士の後継者争いがおこる。70年、モンゴル帝国(フビライ=ハン)の後ろ盾を得た元宗が即位。都が江華島から開城に戻る。しかし、反モンゴル派が反乱を起こす。
武人政治
13世紀の高麗は、日本と同様に武家政権が成立していた。高麗のトップは崔氏であった。
12世紀後半に、軍事クーデターが発生。その後、武人同士の権力争いが続いた。その結果、勝利したのが崔氏である。