1850年代の朝鮮半島 アロー戦争と外戚政治

19世紀前半の朝鮮

外戚による政治

 大院君はなぜ、政治改革を行う必要があったのであろうか。その答えは、19世紀前半の政治を見ていく必要がある。

 19世紀初頭、金祖淳の娘が王妃になる。これにより、安東金氏が勢力を拡大していく。幼い国王を擁立し、実権は安東金氏が握った。これを勢道政治という。

 政府の官職の大部分は、安東金氏一族が握った。多くの両班(やんばん)は政治の世界から追放され、没落した。一方で、安東金氏一族による汚職や収奪が横行していた。

カトリックの弾圧

 朝鮮にカトリック教が伝来したのは17世紀のこと。17世紀末から、

1850年代の東アジア情勢

アロー戦争

北京条約

 58年、清王朝はアロー戦争で英仏両軍に降伏。天津条約を締結。しかし、清王朝は天津条約を批准しなかった。そのため、英仏両軍は再び北京へ侵攻。60年、ロシアの仲介で北京条約を締結した。

 北京条約では、イギリスに対して新たに11港の開港を認めた。その中には東シナ海北部の天津港も含まれた。また、外国公使の北京駐在を認めた。キリスト教の布教も認めた。

 また、ロシアに対しては沿海州(ウラジオストーク)の割譲を行った。これにより、朝鮮はロシアを国境を接するようになった。

日米修好通商条約

 58年の清王朝の天津条約の締結の報は、日本にも伝わった。日本の徳川政権は、日米修好通商条約を締結。九州の長崎を含む5港を開港した。

アロー戦争

 北京条約・天津条約のきっかけになったアロー戦争とはどのようなものであったのであろうか。

 50年代、英仏は良好な関係にあった。イギリスのパーマストン首相とフランスのナポレオン三世である。彼らクリミア戦争に勝利した英仏両軍はその牙を清王朝へ向けた。これで始まったのがアロー戦争であった。

太平天国の乱

 では、清王朝がなぜ列強に負けたのだろうか。清王朝はアロー戦争に集中できない状況にあったのだ。それは宗教反乱の真っただ中にあったからである。それが太平天国の乱である。このとき、太平天国の乱が、南京を陥落。中国南部は太平天国軍の制圧下にあった。

クリミア戦争

 50年代初頭、ヨーロッパではイギリスVSロシアのクリミア戦争が勃発した。

 この時、イギリスは40年代のアヘン戦争で香港に進出していた。一方で、ロシア帝国もシベリア開拓が終わり東アジアにまで領土を拡大していた。そのため、クリミア戦争は東アジア海域でも展開されていた。