1860年代の朝鮮半島 大院君の攘夷政策

大院君とは

 63年、朝鮮国王が子をなくして亡くなった。後を継いだの親戚筋の高宗である。当時、高宗は幼かった。そのため、高宗の父である大院君が摂政として実権を握った。

 なお、大院君は、人命ではなく尊号である。直系継承が行われなかった場合に、新国王の実父に贈られる尊号である。実際、朝鮮王朝では3人の大院君が存在する。幕末の大院君があまりに有名なため

大院君の政治改革

 大院君は、まず政治改革を行った。当時の朝鮮の政治の中心は両班(やんばん)と呼ばれる貴族であった。有力な両班は自分の娘を国王の后とし、外祖父(国王の母方の祖父)として影響力を持っていた。

 しかし、大院君は元々国王の家系ではなかったので両班に気兼ねなく政治をおこなうことができた。
 大院君の登場によって両班の発言力は急速に低下した。

大院君の攘夷政策

 攘夷とは、外国との親交を拒否する政策である。一言でいえば鎖国政策の維持である。東アジア諸国(清王朝、朝鮮王朝、日本)はヨーロッパ諸国を野蛮人として交流を拒否していた。

 60年代に入ると、外国船が朝鮮を訪れるようになった。これにたいし、大院君は攘夷を強行した。

 66年、シャーマン号事件(アメリカ)が発生した。これは通商を求めたアメリカ商船に焼き討ちにあった。これに対してアメリカが朝鮮に軍艦を派遣した事件である。朝鮮の記述によれば、シャーマン号が砲撃を行ったために、住民が暴動を起こしたとされている。同じ年、フランス人宣教師の処刑を行った。

なぜ、この時期に多くの外国船が朝鮮を訪れたのか?

 50年代、清王朝はアロー戦争に敗北。多くの港を開いた。また、60年にはロシアがウラジオストーク(沿海州)に進出。朝鮮と国境を接するようになる。

 一方、日本もアロー戦争の戦況を鑑みて、58年に日米修好通商条約を締結。5港の開港を約束した。60年代に入ると、大政奉還によって朝鮮と良好な関係を築いていた徳川政権が崩壊。明治新政府が成立した。