1970年代の朝鮮半島 朴正煕大統領暗殺

朴正煕大統領暗殺

 70年代の韓国は、朴正煕大統領の開発独裁が行われていた。民主化の弾圧が行われていながら、高い経済成長で国民の強い支持を集めていた。

 韓国は、高度成長によって中間層人口が急拡大した。この中間層が民主化を求めるようになった。

 79年にアメリカで民主党カーター大統領が誕生。人権外交を進めていた。カーター大統領は大韓民国の開発独裁を批判した。

 そのような中、朴正煕(パクチョンヒ)大統領が暗殺。全斗煥(チャンドゥファン)氏ら軍部は、民主化運動の鎮圧へ向った。

漢江の軌跡

 77年、国際収支がついに黒字化された。80年代には、NIEsの一角に入る。当時、石油ショックで先進諸国は停滞していた。NIEs諸国が台頭してきた要因の一つは、低賃金がある。さらに、日本など先進諸国が変動相場制へ移行したが、韓国などNIEs諸国はドルペッグ制(固定相場制)で通貨安を維持することができた。さらに、70年代後半には米中国交正常化によって地政学リスクが大幅に低下した。

開発独裁

 50年代から60年代にかけて、アジアアフリカ地域では多くの国が独立を果たした。独立運動を指揮した人たちは高いカリスマ性から独裁者になるものも多かった。

 彼らは、外国資本を使って国民の生活レベルを控除させて人気を高めるとともに、軍事力を使って反対派を粛清していった。

 代表例は、韓国の朴正煕政権、フィリピンのマルコス政権、インドネシアのスハルト政権である。

朴正煕(パクチョンヒ)大統領の開発独裁

金大中事件

 73年、民主運動家の金大中氏が東京から拉致された。

戒厳令

 これに対し、朴正煕大統領は、72年に戒厳令を発令した。国会を解散。政党・政治活動を禁止した。また、大学も封鎖された。

 朴正煕大統領は、憲法を改正。大統領の直接選挙を廃止。大統領は統一主体国民会議で選出することになった。この憲法を維新憲法(第四共和国憲法)という。

71年大統領選挙

 70年代に入ると、民主化運動は活性化した。

 71年大統領選挙では、現職朴正煕大統領が民主運動家の金大中大統領に勝利した。しかし、僅差での勝利であり、朴正煕大統領はこれを危惧した。

北朝鮮、金王朝の確立

 70年、労働党大会でチュチェ思想の確立を宣言。72年、金日成は国家主席に就任。個人崇拝を進めた。74年、後継者に息子の金正日を指名した。金日成の先祖や本人の伝説がこのころから始まった。
 一方で、韓国や日本へのスパイ活動も活発化した。日本人拉致事件が起きたのもこのころである。