17世紀前半のポーランド ポーランド=リトアニア共和国

17世紀後半のポーランド

 17世紀後半のポーランドは、受難の時代である。ウクライナの反乱をきっかけに、ロシアやスウェーデンなどがから侵攻を受けた。これが大洪水時代という。

17世紀前半の国際情勢

 日本は、江戸時代。家康から家光の武断政治の時代である。

 中国は、清王朝初期。康熙帝の時代。三藩の乱に勝利し、黄金時代に入っていく。

 ヨーロッパは、太陽王ルイ14世の絶対王政の時代である。

ポーランド=リトアニア共和国

概要

 17世紀、ポーランドは、リトアニアと同じ国であった。

 リトアニアは、バルト三国の1つで、一番南(ポーランドに近い)にある国である。

 リトアニアとポーランドは、15世紀に同君連合になり、リトアニア=ポーランド公国になった。16世紀半ばに王家は断絶したが、連合を維持した。

選挙王制

 ポーランドでは、王家が断絶すると選挙王制へ移行した。

 選挙王制とは、有力者に選挙権を与えて、王家を選出する仕組みである。最も有名なのは、神聖ローマ帝国の七選帝侯による選挙王制である。

 ポーランドでは、貴族(シュラフタ)が議会を開き、そこで次期国王が選出された。国王は、外国の王家から迎えることが多かった。主として候補に上がったのが、以下の4カ国である。

  • ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・ドイツ)
  • ヴァロワ家・ブルボン家(フランス)
  • スウェーデン王家
  • モスクワ大公(ロマノフ朝)

 隣国の大国であるハプスブルグ家と対抗することが多いため、フランスやスウェーデンから迎えることが多かった。

貴族(シュラフタ)

 ポーランドで国王の選挙権を持ったのは、貴族である。ポーランドでは、シュラフタと呼ばれた。シュラフタは農場経営者で構成されている。

 ポーランドは、市民に参政権はなく、貴族(シュラフタ)のみで議会が構成。国王も議会が選出した。この議会は、特殊なルールがあった。それが「自由拒否権」である。これは、貴族一人一人がこの権利を持つ。貴族が「自由拒否権」を議決ができなくなる。これにより、ポーランド議会は何も決められなく、衰退に向かっていった。

ポーランドの全盛期

西)ドイツ三十年戦争に不参加

 17世紀は、「17世紀の危機」と呼ばれる狭窄の時代であった。そのような中で、ドイツでは大規模な宗教戦争が展開された。これが、ドイツ三十年戦争である。

 物語の始まりは、皇帝の領地であったチェコ(ベーメン)でおきたプロテスタント(新教・ルター派)の反乱から始まった。

 当時の神聖ローマ皇帝は、ハプスブルグ家が世襲。。ハプスブルグ家は、カトリック(旧教)を信仰していた。

 反乱軍には、新教派の領主が支援。ドイツ全体に広まる。そこへスウェーデンやフランス(ブルボン朝)が新教派陣営で参戦。

 48年のウェストファリア条約で講和する。

 ポーランドは、神聖ローマ皇帝と同じカトリックが多い。しかし、国王は新教派のスウェーデン王家から迎えていた。そのため、ポーランドは、この戦争に対して中立の立場を取った。

南)オスマン帝国

 南は、バルカン半島である。当時のバルカン半島は、イスラム教国のオスマン帝国が支配していた。

東)新興のモスクワ公国

 ポーランドの東は、ロシアである。しかし、この時代はモスクワ大国と呼ばれていた。

 13年にミハエル=ロマネフが皇帝(ツァーリ)に即位。ロマノフ朝が成立する。

北)バルト帝国スウェーデン

 スウェーデンは17世紀大国であった。

 11年、グスタフ=アドルフ国王が即位。バルト海沿岸のリヴォニア(現在のラトビア)をめぐり、リトアニア=ポーランドと戦争状態にあった。

 30年に、新教派陣営で反乱軍を支援。しかし、32年、国王は、戦士する。

タイトルとURLをコピーしました