1850年代のポーランド クリミア戦争とポーランド

1860年代のポーランド

 70年代のポーランド。ポーランド王国は存在していたが、国王は、ロシア皇帝が兼任。ロシアの支配下にあった。

 63年、ポーランドで大規模な独立運動が起きた。1月蜂起である。同時並行でデンマーク戦争などが起きていたので、鎮圧に1年以上かかった。

 この反乱を受けて、ロシアは、ポーランドへの反動政治が始まる。

1850年代の国際情勢

 日本は、江戸時代。ペリーの来航をきっかけに幕末へむかっていく。

 中国は、清王朝末期。アヘン戦争に敗北し衰退気に入っていた。そのような中で、太平天国の乱とアロー戦争が同時展開していた。

 インドでは、インド大反乱が発生。これにより、ムガル帝国は滅亡し、東インド会社の統治下に入った。

 ヨーロッパでは、クリミア戦争が勃発。イギリスのパーマストン首相とフランス皇帝ナポレオン戦争がオスマン帝国に援軍を送り、ロシアに勝利した。

諸国民の春

概要

 諸国民の春とは、ウィーン3月革命を受けて、オーストリア支配下の諸民族が起こした一連の独立運動である。

 ウィーン3月革命は、フランスの二月革命をきっかけに始まった48年革命の1つである。宰相メッテルニヒがイギリスに亡命して

 チェコ、ハンガリー、北イタリアで独立運動が起こった。

 オーストリアは、ロシアの援軍を得てこの反乱を鎮圧させた。

ポーランドでも独立運動

 ポーランドは、46年に独立運動に失敗していた。48年にウィーン3月革命が起こると、再び独立運動を再開した。

 しかし、オーストリア・プロイセン連合軍によって鎮圧された。

ロシアの発言力が高まる

 諸国民の春は、ロシアからの援軍によって鎮圧された。さらに、東欧の強国であったオーストリアは、ウィーン3月革命で疲弊した。ちなみに、この時点ではドイツ帝国は存在しない。

 これにより、ロシアは、東欧に対して大きな発言力を持つようになった。

 勢いに乗ったロシアは、オスマン帝国へ軍を進めた。クリミア戦争である。

クリミア戦争

ロシア帝国の敗北

 53年、ロシアは、オスマン帝国に宣戦布告。クリミア戦争が勃発した。イギリスとフランスは、オスマン帝国に援軍を送り、オスマン帝国が勝利した。

オスマン帝国中立ロシア帝国
イギリス
(パーマストン首相)
フランス
(ナポレオン3世)
サルディーニャ王国
(のちのイタリア王国)
プロイセン王国
(のちのドイツ帝国)
オーストリア

 クリミア戦争の終盤の55年、ロシア皇帝ニコライ1世が崩御。アレクサンドル2世が即位する。

ポーランドの独立は明記されず

56年、パリ条約

 56年、パリに主要国の首脳が集まり、パリ条約が締結。クリミア戦争は終結した。

ポーランド

 クリミア戦争では、ポーランドの独立について国際的な関心が高まっていた。しかし、パリ条約では、ポーランドに関する言及はなかった。

農奴解放令へ

 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、近代化政策の必要性を痛感した。61年に、農奴解放令を発布。これが、ポーランド1月蜂起につながる。