18世紀前半のポーランド ポーランド継承戦争とフランス国王ルイ15世

18世紀後半のポーランド

 18世紀後半、ポーランドの悲劇の始まりポーランド分割が行われる。フランス革命の裏側で、ロシア、プロイセン(のちのドイツ)とオーストリアである。

 このポーランド分割に最後まで抵抗したのが、コシューシコであった。

18世紀後半の国際情勢

 日本は、江戸時代。江戸時代中期の三大改革期。松平定信の寛政の改革が行われた時代である。

 中国は、清王朝後期。乾隆帝が最大版図を獲得した。

 ヨーロッパは、革命の時代。七年戦争が終結。70年代にアメリカ独立戦争が展開。80年代末にフランス革命が勃発した。

大北方戦争

概要

 大北方戦争は、バルト海の制海権をめぐって、大洪水時代の勝者であるロシアとスウェーデンが戦った戦争である。00年に始まり、21年にロシアの勝利で終わった。

 教科書では、北方戦争と表記されることが多い。ただ、16世紀半ばのロシアとスウェーデンとの戦争である北方戦争と区別するために、大北方戦争と表記することがある。

ポーランド

 第2次ウィーン包囲で活躍した国王ヤン3世がなくなると、ロシアが推薦するアウグスト2世が即位した。アウグスト2世は、ザクセン選帝侯を兼任していた。

 ポーランドは、ロシア側で参戦。緒戦は大敗。一時、北側の大部分を失い、国土は再び荒廃した。アウグスト2世は退位。スウェーデンが推薦する国王が即位した。

 09年、スウェーデンが劣勢になると、アウグスト2世が国王に復帰した。

 21年、講和。スウェーデンに奪われたバルト海沿岸のラトビアは、奪還できず。大部分がロシア領になった。

 これにより、シュラフタ(貴族)が反発。国王と対立した。この混乱に乗じて、ポーランドはロシアの事実上の保護国になった。

バルト海

 バルト海は、北ヨーロッパにある地中海である。ロシア(バルト3国)とスウェーデンのあいだにある北方の海である。デンマーク海峡を通って、北海につながっている。

 17世紀後半の大洪水時代で、スウェーデンは、ポーランドからバルト海沿岸部を獲得。バルト海沿岸を獲得した。

ロシア

 ロシアは、ピョートル大帝の時代である。82年に即位。96年から単独統治を行う。17世紀は、まだまだ新興国であった。

 ピョートル大帝は、バルト海進出を狙っていた。99年、バルト海沿岸のデンマーク・ポーランドと同盟。00年にスウェーデンと大北方戦争を開始する。

 21年、大北方戦争に勝利、フィンランドは、スウェーデンに返還するも。ラトビア・エストニアの大部分を獲得した。また、フィンランド返還の見返りに、多額の賠償金も獲得した。

 バルト海の制海権を獲得。バルト海沿岸のサンクトペテルブルクに遷都した。

スウェーデン

 スウェーデンは、北欧の国である。17世紀の三十年戦争の活躍で大国になっていった。大洪水時代にバルト海の制海権を獲得した。

 97年に、カール12世が即位。00年、北方戦争が始まる。カール12世は、18年に戦死。

 この戦争で、スウェーデンはバルト海の制海権を失い、多額の賠償金を背負った。この戦争で、大国の地位をロシアに明け渡した。

同時進行)スペイン継承戦争

 この時期、西欧では、フランス(ブルボン家)とオーストリア(ハプスブルグ家)の間でスペイン継承戦争が展開されていた。ポーランドから独立したプロイセン公国もオーストリア側で参戦した。この戦争で、プロイセンは王国に昇格した。

 13年に講和。フランスやプロイセンも大北方戦争に介入していく。

ポーランド継承戦争

概要

 33年、フランス国王ルイ15世がポーランド国王選挙に介入して起こした戦争である。

ポーランド王位

 大北方戦争以降、国王(アウグスト2世)と貴族(シュラフタ)の対立は続いていた。前述のとおり、アウグスト2世は、国王に推薦したロシアに友好的な国王であった。

 33年、国王アウグスト2世、没。シュラフタたちは、フランス国王ルイ15世の義父をポーランド国王に選出し、ロシアへの対抗意識を出した。

 これに対し、ロシアは、オーストリアともに、アウグスト2世の子を国王を世襲させた。これにより、国王が2名いる状態になった。アウグスト2世は、ザクセン選帝侯でオーストリア(ハプスブルグ家)との関係も深い。

 これに、フランス国王ルイ15世は激怒、オーストリアに宣戦布告した。

フランスの宣戦布告

 フランス国王ルイ15世は、スペイン(ブルボン朝)とサルディーニャ(イタリアの前身)を味方につけて、オーストリアに宣戦布告。

 フランスは、神聖ローマ帝国西部ロレーヌやイタリアへ侵攻した。善戦した。

ロシアの侵入

 フランスが戦場にしたのはポーランドから遠い、ロレーヌやイタリアであった。

 フランス軍がオーストリアと戦っている隙に、ロシアが東からポーランドへ侵攻。フランスが立てた国王は、フランスへ亡命。

 ルイ15世は、オーストリアと停戦。講和交渉が始まった。

講和

 35年10月、講和。

 フランスは、アウグスト3世の子をポーランド国王として認める。義父は、かわりにロレーヌ公の地位を与えた。