3世紀のシリア・パレスチナ ローマ帝国 vsサーサーン朝

前回の復習 4世紀のシリア・パレスチナ

 4世紀のシリア・パレスチナは、属州としてローマ帝国の支配を受けていた。

 この時期は、ミラノ勅令などの宗教政策が重要視された時代である。ユダヤ教徒やキリスト教徒はこの政策に翻弄された。

3世紀の国際情勢

 3世紀(201年ー300年)の日本は、弥生時代。邪馬台国の卑弥呼が活躍した時代である。

 3世紀は、東西に大帝国の衰退期である。中国では、魏呉蜀の三国の戦乱期である。また、ローマ帝国も軍人皇帝の戦乱期である。

軍人の台頭

五賢帝時代の終焉

 180年、五賢帝最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスが戦死。五賢帝時代が終焉した。

 この時代、元老院の有力者は次々戦死。政治の中心は、旧貴族から騎士階級に変わっていった。

軍人皇帝時代

 五賢帝時代が終わると、軍部のトップが皇帝を指名するようになった。軍の中枢である親衛隊が皇帝を指名。元老院が承認するようになった。

 そのため、皇帝も軍人をないがしろにすることができなくなった。この時期に、軍人の給料が急激に増加している。

 35年からの50年間で、18人も皇帝がかわる軍人皇帝時代に入っていく。

ローマ市民権

 12年、ローマ帝国のカラカラ帝は、アントニヌス勅令を発する。属州を含む全帝国民の自由民(奴隷でないもの)にローマ市民権を与えた。

 ローマ市民権は、参政権を獲得。民会の選挙権と被選挙権を獲得。裁判を受ける権利も得た。さらに、所有権も認められた。

 五賢帝時代に終わると、軍人の影響力が大きくなった。軍人には、属州出身者も多かった。そのため、属州出身の軍人の影響を受けて採用した。さらに、軍人の給料の上昇によって、ローマの財政は悪化した。そのため、ローマ市民を増加させることで税収アップを期待した。

 ローマの属州であったシリア・ユダヤ(パレスチナ)も、自由民がローマ市民権を獲得した。

サーサーン朝の時代

2世紀のイラン、パルティア

 2世紀、イランには、パルティアが存在した。2世紀、五賢帝時代のローマ帝国に、クテンシフォンが奪われた。クテンシフォンは、イラク(メソポタミア)にある中東最大の都市で、現在のバグダードにあたる。

サーサーン朝の成立

 24年、サーサーン朝はパルティアを滅ぼす。サーサーン朝が成立する。

ローマ帝国 vs サーサーン朝

 イランとローマ帝国は、2つの地域を巡り争っていた。

 1つは、中東最大の都市クテンシフォンである。イラク(メソポタミア)にあり、現在のバグダードに当たる地域である。

 2つは、アルメニアである。アルメニアは、黒海とカスピ海の間にあるカフカス山脈の麓の国でカフカス地方とも言われる。アルメニアは、カスピ海と黒海の交易で栄えていた。

 ローマ帝国は、中東へ軍隊をおる際に、ローマから地中海をわたり、シリアに上陸。陸路でイラクやアルメニアに向かった。そのため、属州シリアは、対イラン戦争の前線基地であった。

皇帝シャープール1世

 41年、シャープール1世が即位。全盛期を迎え、領土を拡大させた。

 シャープール1世は、アルメニアへ侵攻。ローマ帝国との戦争が始まる。ローマ皇帝は、シリアに入り、サーサーン朝へ侵攻した。

 ローマ皇帝は、自ら指揮して中東へ向かった。60年のエデッサの戦いである。ここで2人の皇帝が捕虜になる大敗をした。