4世紀のシリア・パレスチナ ローマ帝国とユダヤ教

前回の復習 5世紀のシリア・パレスチナ

 5世紀のシリア・パレスチナは、東ローマ帝国の属州であった。五本山が成立。北のシリアにはアンティオキア教会が、南のパレスチナにはイェルサレム教会が存在した。

 東ローマ帝国は、キリスト教を保護した。そのため、ユダヤ教は迫害された。

4世紀の国際情勢

 4世紀(301年ー400年)の日本は、古墳時代。この時期にヤマト政権の統一が進む。

 中国は、魏晋南北朝の戦乱期であった。ヨーロッパはローマ帝国の末期で、4世紀末にゲルマン民族の大移動が始まる。

コンスタンティヌス帝

ミラノ勅令と嘆きの壁

 13年、西正帝コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令を発表。キリスト教の信仰を認めた。

 ユダヤ教は、それ以前は信仰の自由を認められ、ローマ帝国各地に、ユダヤ教の集会場が建設されていた。その一部は、隠れキリスト教の教会になった。

 ミラノ勅令は、ユダヤ教徒にも優しい政策を出した。年1回の嘆きの壁への礼拝を認めた。

 嘆きの壁は、エルサレムにあるユダヤ教の宗教施設である。ここには、もともと、ユダヤ人の神殿が建てられていた。しかし、1世紀の第一次ユダヤ戦争で崩壊した神殿の一部である。現在は、この地にイスラム使節の岩のドームがある。ユダヤ人は、2世紀の第二次ユダヤ戦争でエルサレムを追放。嘆きの壁への礼拝もできなくなった。

キリスト教 五本山の成立

 24年、コンスタンティヌス帝は、ローマからコンスタンティノーブルに遷都した。

 このとき、新首都コンスタンティノーブルとエルサレムの教会に総主教が置かれた。これが五本山の成立である。

 他の総主教は、ローマ帝国の都でピサロ殉教地であるローマと2つの大都市である。シリアのアンティオキアとエジプトのアレキサンドリアである。

ニケーア公会議と日曜日

 25年、ニケーア公会議が開催された。教科書では、アリウス派が異端とされ、アタナシウス派が正統とされたと記載されている。しかし、ニケーア公会議の本来の目的は、キリスト教の教義を決めることであった。アリウス派とアタナシウス派の対立は、その一部に過ぎない。

 一般的に日曜日は休みにしている会社が多い。これは、キリスト教の礼拝の日が起源になっている。ちなみに、キリスト教を礼拝の日が決まったのが、このニケーア公会議である。

ユリアヌス帝

実現しなかったイェルサレム神殿の再建

 61年、ユリアヌス帝が即位。彼は、コンスタンティヌス帝の政策を否定した。その一つが、キリスト教の公認である。キリスト教を否定し、ローマ時代の多神教時代へ戻そうとした。

 そのような中で、ユダヤ教も大事にした。1世紀のユダヤ戦争で崩壊したイェルサレムの神殿を再建しようとした。しかし、再建する前に、ユリアヌス帝が崩御。実現しなかった。

デオドシウス帝

ユダヤ教の迫害

 78年、デオドシウス帝が即位。92年、異教徒禁止令を出し、キリスト教以外の宗教を禁止した。

 このとき、ユダヤ教も禁止された。

シリア4分割

 シリアは、共和政ローマにシリアを征服すると、北部は、シリア属州とし、南部は、ユダヤ属州とアラビア属州とされた。

 デオドシウス帝が即位すると、シリア属州は、4つに分割された。