前回の復習 7世紀のシリア・パレスチナ
7世紀、中東のアラブでイスラム教が成立。イスラム勢力は、瞬く間に、シリアを含む中東全域を支配下においた。
イスラム勢力は、ムハンマドが亡くなると、話し合いでトップ(カリフ)を決める正統カリフ時代になった。その後、シリアのダマスカスに拠点を置くウマイヤ朝が成立した。
6世紀の国際情勢
私は、6世紀以前を古代ととらえている。7世紀にイスラム教が成立。キリスト教世界でも、教皇領が成立した。これにより、宗教が大きな影響を及ぼす中世に入っていく。
6世紀(501年ー600年)の日本は、飛鳥時代。仏教が日本に伝わった。
中国では、隋王朝が滅亡し、唐王朝が成立する。西ヨーロッパでは、ゲルマン系諸国が勢力争いが行われていた。
ローマvsイラン
6世紀の中東
古代の中東の最大の都市は、イラク(メソポタミア)のクテンシフォンであった。
このクテンシフォンは、6世紀、2大帝国の係争地になっていた。1つは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)である。もう一つは、イランのサーサーン朝である。
ローマ皇帝ユスティアヌス帝
6世紀は、東ローマ帝国の全盛期である。ユスティアヌス帝が地中海を再統一した。この背景には、サーサーン朝との不戦同盟があった。
サーサーン朝皇帝ホスロー1世
では、イランのサーサーン朝は、東ローマ帝国と不戦同盟を結んでいたのであろうか。それは、当時のサーサーン朝は、東(中央アジア)のエフタルの侵攻に悩まされていたからである。
皇帝ホスロー1世は、東ローマ帝国と同盟を結ぶと、エフタルを滅ぼした。
シリアの荒廃
6世紀のシリア
6世紀のシリアは、東ローマ帝国の属州であった。4つ除く州に分割されて統治されていた。
このシリアは、2つの重要の役割を持っていた。1つは、地中海交易の拠点である。2つ目は、サーサーン朝への前線基地であった。
戦争の再開
ユスティアヌス帝とホスロー1世が亡くなると、ローマとイランの戦争は再開された。サーサーン朝は、シリア遠征を繰り返した。これにより、シリアは荒廃した。
迂回路の発展
古代の交易路
古代の最大の都は、2つである。漢王朝(中国)の長安とローマ帝国のローマである。
商業は、この2つの都市を結んぶ形で発展した。長安から中央アジアへ入り、イランを通り、イラク(メソポタミア・クテンシフォン)へ入り、シリアで地中海に出てローマへ向かう。
シリアやイラクは、この交易ルートに入ったことで発展した。
迂回路へ
サーサーン朝とローマ帝国の戦争がはじまると、シリアやイラクは戦場になった。
商人は、戦場のイラクやシリアを避けるようになった。イランに入ると、イラクに向かわずにペルシャ湾をわたり、アラビア半島を通ってエジプトへ向かった。エジプトから地中海に進出した。
メッカの発展
エジプトの市場に、アジアの商品が集まり、中世には東方貿易の拠点になった。
また、迂回路になったアラビア半島には多くの商業都市が成立した。その1つが、メッカである。このメッカに生まれたのが、預言者ムハンマドであった。