7世紀のシリア・パレスチナ イスラムの侵攻とウマイヤ朝の成立

前回の復習 8世紀のシリア・パレスチナ

  8世紀、シリアのダマスカスに都をおいたウマイヤ朝の時代である。しかし、8世紀なかばにアッバース革命が発生。ウマイヤ朝は滅亡した。

7世紀の国際情勢

 7世紀(601年ー700年)の日本は、飛鳥時代。聖徳太子の時代から、大化の改新を経て、律令政治の時代へ移行していく。

 中国では、隋王朝が滅亡し、唐王朝が成立する。

東ローマ帝国

 イスラム教成立前のシリアは、東ローマ帝国の属州であった。属州とは、ローマ帝国の海外植民地である。

 6世紀のシリアは、サーサーン朝(イラン)の侵攻を何度も受け、荒廃していた。

 商人は、戦乱中のシリアを迂回して、イエメンからアラビア半島に入り、エジプトで交易をするようになった。

イスラムの成立

 10年、ムハンマドが神の啓示を受け、最後の預言者となる。これがイスラム教の始まりである。

 ムハンマドは、アラビア半島のメッカの出身である。メッカは、戦乱中のイラク(メソポタミア)・シリアの迂回ルートとして発展した。人口は1万人規模で、経済の発展とともに格差も拡大した。

 ムハンマドがイスラム教を開くと貧困層を中心に広まった。ただ、多くの人々は、これを冷笑していた。19年、ムハンマドの強力な擁護者が他界。これにより、ムハンマドたちは迫害を受けるようになる。

 21年、ムハンマドは、天使ガブリエル導かれ、イェルサレムを訪れ、神の啓示を受ける。

 翌22年、ムハンマドらは、メッカとイェルサレムの中間地点にあるメディナに移住。ここが最初の聖地になる。

 24年、ムハンマドらは、メッカの勢力に勝利。(バドルの戦い)。この戦いに勝利した9月がラマダン月となった。その後、ムハンマドらは、イェルサレムのユダヤ人勢力とメッカの勢力と争うようになる。

 30年1月、メッカを占領。多神教の神殿であったカーバ神殿の偶像を破壊した。ここが2つ目の聖地となる。現在、イスラム教徒は、1日5回、カーバ神殿に向かって礼拝を行っている。

 32年、ムハンマドが他界。

正統カリフ時代にシリアを征服

 32年、ムハンマドが他界すると、話し合いで、ムハンマドの親友であるアブー=バルクが初代カリフに就任した。アブー=バルクは、すでに就任時にすでに高齢であった。そのため、2代目カリフとして、ウマルを指名した。

 ムハンマドが他界した32年からウマイヤ朝が成立する61年までを正統カリフ時代という。

 アブー=バルクは、アラブの諸部族を制圧。アラビア半島を統一した。翌33年、肥沃なイラク・シリアへ侵攻を開始した。

 34年、アブー=バルクが他界。遺言のとおり、ウマルが2代目カリフに就任。

 翌35年、ダマスカスを占領。シリアもイスラム勢力下に入った。

 その後、イスラム圏は、エジプトからイランに広がる大帝国になった。

 五本山であったアンティオキア教会(シリア)、アレキサンドリア教会(エジプト)とエルサレム教会(パレスチナ)はイスラム圏に入り衰退。キリスト教は、ローマ教会を(イタリア)中心とした西部とコンスタンティノーブル教会(トルコ)を中心とした東部に集約されていく。聖像禁止令によって、ローマ教会を頂点としたカトリックとコンスタンティノーブルを中心とした東方正教会に分裂していく。

ウマイヤ家

 度重なる戦争によって、軍人の声が高まった。その勢力は、2つの勢力に別れていた。シリアのウマイヤ家とイラクのハーシム家である。

ウマイヤ家ハーシム家
シリアのダマスカス拠点イラクのクーファ
(のちにバグダード)
北アフリカ・スペイン
東ローマ帝国(バルカン半島)
侵攻先中央アジア・インド
サーサーン朝(イラン)
3代目のウスマーンカリフ4代目のアリー

 44年、カリフ=ウマルが亡くなると、ウマイヤ家のウスマーンが3代目カリフに就任。ウスマーンはウマイヤ家を優遇。多くの反感をかう。56年、反乱軍によって暗殺された。

 56年、ハーシム家のアリーが4代目カリフに就任。ウマイヤ家はこれを認めず、内乱状態になる。

 しかし、その後、ハーシム家とウマイヤ家が和解。内覧は集結した。ただ、ハーシム家の過激派がこれを認めなかった。彼らが、ハワーリジュ派である。

 61年、ハワーリジュ派がアリーを暗殺。正統カリフ時代が終焉した。

ウマイヤ朝の成立

 61年、アリーが暗殺されると、ウマイヤ家がカリフを世襲していく。イスラム最初の王朝であるウマイヤ朝である。シーア派との対立の関係でアラブのメッカに入れなかった。そのため、ウマイヤ家の拠点であるシリアのダマスカスを都にした。

スンニ派とシーア派

 ウマイヤ朝が成立しても、ハーシム家のシーアの子孫のみを正統なカリフとする勢力があった。彼らはシーア派と呼ばれた。

 一方で、ウマイヤ朝、アッバース朝のカリフを容認する人々は、スンニ派と呼ばれた。

岩のモスク

 ウマイヤ朝は、シーア派勢力との戦争のために、正統性を求めた。彼らが利用したのは、ウマイヤ朝の勢力下にあったパレスチナのイェルサレムであった。

 ムハンマドは、イェルサレムの岩の上でアッラー(神)の啓示を受けたとされている。この岩は、かつてイェルサレムの神殿があった場所であった。

 38年、この岩に木造のモスクが建設された。

 ウマイヤ朝は、91年、木造のモスクを改築した。これが、岩のモスクである。