前回の復習 15世紀のシリア・パレスチナ
15世紀、シリア・パレスチナは、エジプトのマムルーク朝の支配していた。
今回は、シリア・パレスチナ周辺諸国の変化を見ていきます。
14世紀の国際情勢
14世紀(1301年ー1400年)、日本は、鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入る。
ユーラシア大陸では、モンゴル系の国家が次々滅亡した。中国では、元王朝が滅亡し、明王朝が成立。
フランスでは、カペー朝が断絶。これをきっかけにイギリスとの百年戦争が勃発する。14世紀なかばには、ペストが流行。
フランスは、百年戦争でイングランドに勝利。この勢いで、神聖ローマ帝国(ドイツ)とイタリア戦争に向かっていく。一方、敗北したイングランドでは、内戦(ばら戦争)が勃発する。
十字軍が去ったアッコン
アッコン陥落
アッコンは、聖地エルサレムの北にある港町である。十字軍国家イェルサレム王国の最後の拠点である。
1291年、マムルーク朝はアッコンを攻撃し、征服した。
マムルーク朝の統治
マムルーク朝は、13世紀なかばにエジプトで成立した王朝である。トルコ系軍事奴隷が建国した王朝である。
13世紀なかばに、バグダードがモンゴル帝国に征服され、カリフは処刑。アッバース朝は滅亡した。マムルーク朝は、アッバース朝カリフ一族の末裔を保護。さらに、三聖地、エルサレム、メッカ、メディナを統治。宗教的権威を獲得した。
ヨーロッパでマムルーク朝の手法を真似た王がいる。フランスのフィリップ4世である。これが09年の「教皇のバビロン捕囚」である。
地中海に残る騎士団
アッコンには、2つの宗教騎士団がいた。ヨハネ騎士団とテンプル騎士団である。
アッコンが陥落すると、テンプル騎士団はキプロス島に、ヨハネ騎士団はロードス島に、拠点を移した。
テンプル騎士団は、フランスとローマ教皇(アヴィニョン教皇庁)によって解散させられた。一方、ヨハネ騎士団はマルタ騎士団として現在も存続している。
マムルーク朝とモンゴル系王朝
イラクのフラグ=ウルス
13世紀は、モンゴルの世紀である。中東もその例外ではない。13世紀なかばに、モンゴル帝国のフラグがバグダードを征服。カリフを殺害。イスラム勢力から反発を受けた。
フラグ=ウルスは、エルサレムの十字軍国家を通じてフランスやローマ教皇と良好な関係を築いていた。
13世紀末にアッコンが陥落すると、イスラム教に改宗。
マムルーク朝は、シリアをめぐり、フラグ=ウルスとをしてい対立していた。
フラグ=ウルスは、35年に国王が暗殺。群雄割拠の時代に入る。これを統一したのが、ティムールである。
ロシアのジョチ=ウルス
南ロシアには、ジョチ=ウルスが成立していた。ジョチ=ウルスは、カフカス地方を巡り、フラグ=ウルスと対立していた。そのため、マムルーク朝は、ジョチ=ウルスと同盟関係を結んでいた。
14世紀半ばに王家が断絶。西では、リトアニア大公国に敗北。ウクライナ(黒海の北)を奪われる。さらに、東からはティムール帝国の侵攻を受ける。
貿易拠点はカイロへ
新国際貿易港カイロ
13世紀、シリアが十字軍遠征やモンゴル人の侵攻で混乱。地中海の貿易拠点は、シリアからカイロへ移った。
黒死病(ペスト)の流行
14世紀なかば、地中海沿岸で黒死病が流行。国際貿易港であったカイロで多くの死者を出した。
黒死病の流行で、カイロの人口が大幅に減少。軍隊も縮小した。これが、マムルーク朝の滅亡の遠因になった。
また、黒死病の流行で東方貿易も縮小した。
ヴェネツィアの全盛期
ヨーロッパでは、東方貿易でジェノヴァとヴェネツィアが対立していた。80年、キオッジアの海戦でヴェネツィアが勝利。以後、東方貿易を独占していく。これにより、ムスリム商人の価格競争力が低下していく。
一方、ジェノヴァの船乗りたちは、スペイン・ポルトガルへ移住。15世紀か始まる大航海時代を支えていくことになる。