16世紀後半のシリア・パレスチナ フランスとの関係強化

前回の復習 17世紀前半のシリア・パレスチナ

 17世紀、シリア・パレスチナはオスマン帝国の支配下であった。17世紀のアジアは、四大帝国の時代である。トルコのオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国と中国の清王朝である。

 前回は、オスマン帝国の宗教政策を見ていきました。今回は、オスマン帝国とヨーロッパとの関係を見ていきます。

16世紀後半の国際情勢

 16世紀後半の日本は、安土桃山時代。織田信長や豊臣秀吉が統治していた時代である。

 中国は、明王朝の末期。

 ヨーロッパは、フランスでユグノー戦争が起こる。

スレイマン1世

領土の拡大

 20年、オスマン帝国スレイマン1世が即位。領土が拡大した。

 北方(バルカン半島)では、ハンガリーを征服。第1回ウィーン包囲を実施。

 西方(地中海)では、プレヴェザの海戦に勝利。

 東方(イラン)では、サファヴィ朝を撃退した。

フランスにカピチュレーション

フランス

 スレイマン1世は、ハンガリーと地中海の制海権をめぐり、カール5世と戦っていた。このカール5世のライバルが、フランス国王フランソワ1世である。

 スレイマン1世は、フランスと同盟を締結した。

カピチュレーション

 オスマン帝国は、ヴェネツィアにかわる貿易相手として指名したのがフランス商人である。

 スレイマン1世は、35年にフランスに対して商業特権を与えた。これが、カピチュレーションである。

 この商業特権の1つが領事裁判権である。これは、外国人の裁判は、その国の領事が行うというものである。

 これは、オスマン帝国の宗教政策のミレット制がベースになっている。ミレット制とは、異教徒に対して、人頭税(シズヤ)の納付を条件に、宗教の自由と裁判を含む自治を認める地方統治政策である。

 69年、カピチュレーションを拡大した。

ユグノー戦争で衰退

 62年、フランスで内戦(ユグノー戦争)が勃発。これが激化していくと、フランスとの交易が減少した。

 かわりに台頭したのが、エリザベス女王期のイングランドと、建国したばかりのオランダである。80年にイングランドとカピチュレーションを締結。1612年にオランダとカピチュレーションを締結した。

レパントの海戦に敗北

オスマン海軍

 プレヴェザの海戦に勝利したオスマン海軍は、地中海の制海権を獲得した。地中海で交易するスペインの船を攻撃した。さらに、セリム2世は、ヴェネツィアからキプロス島を奪った。

レパントの海戦

 スペイン(フィリップ2世)とヴェネツィアは、ローマ教皇を盟主にして、オスマン海軍に攻撃をした。これがレパントの海戦である。

無敵艦隊

 71年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ連合軍は、レパントの海戦でオスマン海軍に勝利した。この戦いに勝利したスペイン海軍は、無敵艦隊と呼ばれるようになる。

その後のオスマン海軍

 オスマン海軍は、72年に再建。74年には、チュニジアを占領する。

 革命政府は、エルサレムの聖地管理権をこのときに放棄している。

ナポレオンとオスマン帝国

 ナポレオンが登場すると、98年、オスマン帝国領エジプトへ侵攻。(エジプト遠征)。これにより、ナポレオンとオスマン帝国の争いが始まった。