1850年代のシリア・パレスチナ クリミア戦争と聖地管理権

前回の復習 1860年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀後半に入ると、オスマン帝国は弱体化。ヨーロッパ各国は、中東の植民地化に向かい始めた。

 60年代のオスマン帝国は、クリミア戦争の影響でヨーロッパの影響を受けるようになった。特に影響を与えたのは、フランス皇帝ナポレオン3世であった。その影響の1つがレバノン自治であった。

1850年代の国際情勢

 1850年代、日本は幕末。ペリー来航がこの時期である。

 48年革命で、フランスは第二共和政を経て、ナポレオン3世の時代に入る。中東では、クリミア戦争。中国ではアロー戦争が起きた。

クリミア戦争

クリミア戦争とは

 クリミア戦争とは、53年にロシアがオスマン帝国へ侵攻したことで始まった。イギリスやフランスがオスマン帝国を支援。56年、オスマン帝国は、ロシアを撃退した。

原因は、聖地管理権

 ロシアが、オスマン帝国へ侵攻した理由は、地中海への進出にあった。しかし、侵攻するには大義名分が必要であった。それに利用されたのが聖地管理権であった。

 オスマン帝国が、フランスに聖地管理権を与えた。これに対して、ロシアもロシア正教徒の保護を目的に同盟を求めた。オスマン帝国はこれを拒否。これがロシアが侵攻する大義名分になった。

聖地管理権とは

 聖地管理権の歴史は16世紀まで遡る。フランスのフランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世が対立していた時代である。フランスは、カール5世と戦うために、オスマン帝国のスレーマン1世と同盟を結んだ。このときに、オスマン帝国がフランスに与えたのが聖地管理権である。

 聖地管理権とは、オスマン帝国の支配下にあったエルサレムのキリスト教施設を管理する権利である。

 フランス革命が起こると、フランスはカトリックを禁止。このとき、フランスは聖地管理権を放棄した。この時、かわりに聖地管理権を得たのが、ギリシャ正教会のロシアであった。

 カトリックのトップであるローマ教皇はこれをこころよく思わなかった。ナポレオン3世は、皇帝権威を高めるために、カトリックを利用した。ローマ教皇とナポレオン3世の関係が良好になると、ナポレオン3世はオスマン帝国に聖地管理権の返還を要求した。

オスマン帝国とタンジマート

改革勅令

 56年、改革勅令が出された。これにより、タンジマート後半戦が始まる。61年、アブデュルアジト1世が即位した。

ナポレオン3世