1880年代のシリア・パレスチナ アブデュルハミト2世とパン=イスラム主義

前回の復習 1890年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀後半に入ると、オスマン帝国は弱体化。ヨーロッパ各国は、中東の植民地化に向かい始めた。

1880年代の国際情勢

 1880年代、日本は明治時代。明治憲法が成立し、帝国議会が開かれた。

 世界は、近代から現代への移行期。ヨーロッパは、帝国主義の時代。ドイツ帝国の宰相ビスマルクの下で、強調外交が展開されていた。ベルリン=コンゴ会議によって、アフリカ分割が進んでいた。

弱体化するオスマン帝国

1880年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配した。

財政難と領土の縮小

 オスマン帝国の当時の皇帝は、アブデュルハミト2世の専制君主制の時代である。

 当時のオスマン帝国は、財政難と露土戦争の敗北で弱体化していた。北アフリカやバルカン半島を中心に領土が縮小していた。

80年代のエジプト

 イスラエルの南のエジプトはどのような上京であっただろうか。80年のエジプトは、ウラビー革命が発生。これをイギリス軍が単独で鎮圧。これにより、エジプトはイギリスの植民地になった。

シリアの反乱

ドルーズ派の反乱

 シリアでは、89年から90年にかけてドールズ派の反乱が発生。オスマン帝国は、フランスなどの支援をえて反乱を鎮圧した。

ドルーズ派とは

 ドルーズ派とは、シーア派の一勢力である。11世紀のシリアでイスマイール派(過激シーア派)から分離して成立した。

 オスマン帝国では、山岳レバノンの南部で自治を行っていた。

影響)シリアはフランスの勢力圏

 オスマン帝国は、フランスとベルギーの支援を得てこの反乱を鎮圧した。その代わりに、オスマン帝国はフランスとベルギーに、シリアのカピチュレーションを認めた。これにより、シリアは、フランスの勢力圏になった。

 これが、サイクス=ピコ条約の背景になった。

アラブ人 vs ユダヤ人

パレスチナへの移住の禁止

 ユダヤ人は、パレスチナに移住することに特に規制はなかった。

 80年代にロシアでユダヤ人の迫害が開始。これにより、シオニズム運動が始まった。これによりユダヤ人の移住が急増した。

 83年、オスマン帝国はパレスチナのユダヤ人移住を禁止した。

パン=イスラム主義

 ユダヤ人の移住禁止の背景には、パン=イスラム主義がある。

 パン=イスラム主義とは、民族や宗派の違いを超えて協力する思想で、アフガーニーが提唱した。始まりは、イラン(カジャール朝)である。カジャール朝が、イギリスの影響を受けると、反英運動を展開した。

 アブデュルハミト2世は、このパン=イスラム主義を利用して、皇帝権威を高めようとした。そのため、この運動を支援し、アフガーニーをイスタンブールに招待した。

 オスマン帝国の領土縮小によって、バルカン半島のイスラム教徒は中東へ移住するようになった。これにより、オスマン帝国内でイスラム教の影響力は高まった。これが、パン=イスラム主義を支援する様になった。

 しかし、シリアで反乱がおこると、アフガーニーの過激思想が問題視される。オスマン帝国は、アフガーニーを軟禁した。