1910年代のシリア・パレスチナ イギリス三枚舌外交と第一次世界大戦

前回の復習 1920年代のシリア・パレスチナ

 1920年代、イギリスの三枚舌外交の影響で、様々な対立が発生した。パレスチナでは、アラブ人とユダヤ系移民が対立。シリアでは、フランスとアラブ人が対立した。

 今回は、その原因であるイギリスの三枚舌外交を見ていきます。

1910年代の国際情勢

 1910年代は、第一次世界大戦の時代である。第一次世界大戦は14年に始まり、18年に終結した。

第一次世界大戦と中東

第1次世界大戦前の中東

 第一次世界大戦前、中東の大部分はオスマン帝国の支配下似合った。

 19世紀後半に入ると衰退傾向にあった。この機に乗じてバルカン半島諸国の独立運動が展開されていた。これを支援していたのがロシアである。

 一方で、オスマン帝国を支援したのは、ドイツ帝国である。

第一次世界大戦の構図

 2つの世界大戦は、イギリスとドイツの対立である。

 イギリスには、ロシアとフランスがついた。一方で、ドイツには、オーストリアがついた。

オスマン帝国vsイギリス

 中東の強国、オスマン帝国はドイツ陣営についた。そのため、イギリスは、オスマン帝国に対抗するために様々な秘密外交を展開した。これがイギリスの三枚舌外交である。

 64年5月、PLO(パレスチナ解放機構)が設立された。

 アラブ連盟は、第1次中東戦争に敗北。

 大部分がイスラエルになり、ヨルダンがヨルダン川西岸地域を、エジプトがガザ地区を獲得し、アラブ人国家は消滅した。

 聖地イェルサレムは、当初アラブ人国家の中に入る予定であった。戦争の結果、国境上の都になり、東半分がイスラエル、西半分がヨルダン(ヨルダン川西岸地域)となった。

 イスラエルの拡大により、多くのアラブ人(パレスチナ人)が住居を失い周辺国へ亡命した。これがパレスチナ難民問題である。

イギリス三枚舌外交

イギリス三枚舌外交とは

 イギリスの三枚舌外交とは、第1次世界大戦でドイツに勝利するために行われた3つの条約である。その3つの条約はいずれも中東に関するものである。

サイクス=ピコ協定

 サイクス=ピコ条約は、イギリスとフランス、ロシアが結んだ中東地域の勢力範囲を定めた条約である。16年に締結された。フランスのシリア支配はこの条約に基づく。 

バルフォア宣言とユダヤ人

 バルフォア宣言は、17年11月にイギリスが出した政治声明である。内容は、パレスチナにユダヤ人国家を建設することである。

 その背景には、イギリスがユダヤ人資本のロスチャイルド家が戦費を調達した。

 このバルフォア宣言によって、パレスチナに多くのユダヤ人が移住した。

フサイン=マクマホン協定とアラブ人

 フサイン=マクマホン協定は、イギリスがアラブの独立運動を支援する秘密協定である。協定を結んだのが、メッカの太守であったハーシム家のフサインである。