1980年代後半のシリア・パレスチナ
1980年代後半、シリアとイスラエルはレバノンをめぐり対立。イスラエル国内では、パレスチナ人による第1次インティファーダが起こる。これは、90年のオスロ合意まで続く。
今回は、シリアとイスラエルが対立する要因になったしリア内戦を見ていきます。
1980年代前半の国際情勢
1980年代前半、日本は中曽根首相の時代。ロッキード裁判と消費税導入問題で政治は不安定であった。
80年代のテーマは、民営化と新冷戦である。レーガノミックスに象徴されるように減税による景気回復が求められた。日本でも、80年代後半に国鉄民営化でJRが誕生している。
また、ソ連のアフガニスタン侵攻で新冷戦が勃発。イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が置きたのもこの時代である。
レバノン内戦
レバノン内戦とは
レバノン内戦とは、70年に始まったキリスト教徒(マロン派)とイスラム教徒との戦いである。イスラエルやシリアなどが参戦したことで、長期化した。また、イスラム教徒もシーア派とスンニ派で分裂。複雑な構図になっていた。
この内戦は、第5次中東戦争と位置づける専門家もいる。
そのきっかけは、PLO(パレスチナ開放機構)のレバノン移転にあった。
レバノンとは
レバノンは、シリアとイスラエルに挟まれた地中海沿岸の中等国である。元々は、シリアの一部であったが、フランス植民地時代にキリスト教徒の多い地域を分割したのが始まりである。
PLOはチュニジアへ
イスラエルの空爆が激しくなると、PLO(パレスチナ解放機構)は、レバノンから撤退。北アフリカのチュニジアへ拠点を移した。これにより、レバノン内戦は集結するはずであった。
しかし、このあとシリアとイスラエルの主導権争いでレバノン内戦は続く。
イスラエルのレバノン侵攻
82年6月、イスラエルは、レバノン国内のPLO(パレスチナ解放機構)の拠点を空爆。これにより、PLOは、チュニジアへ移転した。
しかし、イスラエルはこの空爆で国際的に非難を浴び、首相が辞任した。
その後、キリスト教(マロン派)がイスラム教徒に残虐行為を行ったことが発覚。イスラエルの汚点となった。
シリアとレバノン内戦
シリアのアサド政権は、少数派のシーア派である。同じ少数派のキリスト教(マロン派)側で介入した。並行して、レバノン国内でシーア派勢力を拡大させた。これがヒスボラである。
PLOが撤退すると、ヒスボラ(シーア派)とマロン派(キリスト教)の対立が始まる。マロン派の残虐行為が行われた南部を中心にヒスボラは勢力を拡大。ヒスボラは、レバノン南部で独自政権を樹立した。
イラン=イラク戦争
79年のイラン革命を受けて、80年イラン=イラク戦争が勃発した。
当時のシリアは、イラクと対立していた。1つ目はバース党の主導権争いである。さらに、ユーフラテス川の水源問題で両者の対立は更に深刻化した。
そのため、シリアはイランを支援した。アメリカやサウジアラビアがイラクを支援していたため、シリアは国際的に孤立化した。
エジプト=イスラエル平和条約
70年代後半は、中東の大転換期である。イランでは、イラン革命で新米政権が崩壊。一方、アラブ諸国の中心的存在であったエジプトは、イスラエルと和平条約を締結した。