前回の復習 紀元前1世紀のシリア・パレスチナ
紀元前1世紀のシリア・パレスチナは、ユダ王国ハスモン朝の時代である。ハスモン朝が内紛で衰退。共和政ローマの支援を受けたヘロデ王の時代に入る。
このヘロデ王の時代に、イエスが誕生する。
紀元前2世紀の国際情勢
紀元前2世紀(BC200年ーBC101年)の日本は、弥生時代。環濠集落で稲作が行われていた時代である。中国は、前漢の時代。高祖(劉邦)がなくなり、武帝の時代までの時代で、中央集権化が進んだ。
地中海世界では、ポエニ戦争で共和政ローマが、カルタゴ(北アフリカ)を滅ぼした。
再興したユダ王国
ハスモン朝
42年、ユダヤ人はマカベア戦争に勝利。ユダ王国はセレウコス朝から独立した。このとき成立したのがハスモン朝である。
紀元前1世紀に、ヘロデ王が登場するまで続いた。
ユダ王国独立戦争
マカベア戦争
紀元前2世紀初頭、パレスチナはセレウコス朝の支配下にあった。
66年、セレウコス朝でユダヤ教徒の反乱が起こる。これがマカベア戦争である。
42年、ユダヤ教徒が勝利。ユダ王国がセレウコス朝から独立した。
ユダヤ教 vs ギリシャ神話
この反乱の始まりは、宗教問題であった。
セレウコス朝シリアの人々は、ギリシャの人々である。そのため、ゼウスを中心としたギリシャの神々を進行する多神教を信仰していた。ただ、多神教は、他の宗教に対して寛容で大きなトラブルはなかった。
ただ、セレウコス朝の王が、「現人神(あらびとかみ)」として、国王崇拝を国民に求めた。それはユダヤ教徒(ユダヤ人)に対してでもあった。「現人神(あらびとかみ)」は、多神教でしかありえない考え方で、一神教のユダヤ教徒には受け入れられなかった。これが、マカベア戦争の始まりである。
パルティアのイラク侵入
セレウコス朝は、マカベア戦争に集中することはできなかった。なぜなら、東方からパルティアが侵攻していたからである。
87年に、セレウコス朝のアンティオコス3世がなくなり、セレウコス朝は衰退期に入る。この衰退期に、パルティアの国王であったのが、ミトラダテス1世である。71年に即位すると、イラン統一に向けて動き出した。
48年、パルティアは、イラン北西部(メディア州)を占領。
42年、セレウコス朝は、マカベア戦争に敗北。
41年、パルティアが、セレウコス(イラク・メソポタミア)を陥落。
第3次ポエニ戦争に援軍を出せず
この時期、地中海世界では、第3次ポエニ戦争が起きていた。ポエニ戦争とは、共和政ローマとカルタゴ(北アフリカ)のち仲介の覇権を巡る戦争である。
本来であれば、セレウコス朝はカルタゴ(北アフリカ)に援軍を出すはずであった。しかし、マカベア戦争の影響でポエニ戦争に援軍が出せなかった。これにより、カルタゴは第3次ポエニ戦争に敗北。カルタゴは滅亡した。
49年、第3次ポエニ戦争が勃発。
46年、カルタゴが第3次ポエニ戦争に敗北し、滅亡。
42年、セレウコス朝、マカベア戦争に敗北。
セレウコス朝
セレウコス朝とは
セレウコス朝は、紀元前3世紀に成立した。ギリシャ系民族の王朝である。シリアからイランに広がる大帝国であった。
紀元前3世紀末に、アンティオコス3世が即位。領土の拡大に努めた。特に、東方に侵攻。パルティア(イラン)、バクトリア(中央アジア)から、多くの領土を回復した。
アンティオコス3世の征服地の統治は、アケメネス朝を手本にした。征服した国の王に対し、宗主権を認めさせ、軍役と貢納(納税)を条件に王位を保証した。
91年、シリア軍は共和政ローマに敗北。87年に亡くなった。セレウコス朝の衰退期が始まる。これにより、セレウコス朝の支配下の王たちは独立に向けて動き始めた。
パレスチナ争奪戦
紀元前3世紀、パレスチナは、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの係争地であった。紀元前3世紀、シリアとエジプトは5回も戦争が起きた。
紀元前3世紀末の第5次シリア戦争で、セレウコス朝が勝利。パレスチナは、セレウコス朝の支配下に入った。
ヘレニズム3国
ヘレニズム3国とは、アレキサンダー大帝の後継者3人が建国した3つの国家である。
この3つの国は、1世紀までに共和政ローマに征服されていく。それまでの時代をヘレニズム時代という。
この3つの国では、国王のギリシャ文化と現地のオリエント文化が融合して、ヘレニズム文化を構築した。
ハンニバルの亡命を受け入れる
パレスチナをめぐり対立してたエジプト(プトレマイオス朝)とシリア(セレウコス朝)は、ポエニ戦争に密接に関与した。
カルタゴ(北アフリカ)に隣接していたエジプト(プトレマイオス)は、共和政ローマに接近していた。
一方、シリア(セレウコス朝)は、フェニキア人のかつての拠点であった。そのため、フェニキア人国家でカルタゴを支援した。また、ギリシャもカルタゴと同盟を結んでいた。
01年、第2次ポエニ戦争で、カルタゴが敗北。司令官であったハンニバルは、シリアに亡命した。これをきっかけに、シリアは正式にカルタゴと同盟関係にあったアンディゴノス朝マケドニアと正式同盟関係を結んだ。
これに脅威を感じたのが都市国家のアテネなどである。アテネは、共和政ローマに支援を求めた。
これにより、シリアとローマの間で戦争が始まった。第2次マケドニア戦争である。
セレウコス朝シリアは、ローマに敗北。88年にローマと講和。莫大な賠償金を負うことになった。
そして、91年、国王アンティオキア3世が没。セレウコス朝各地で現地勢力の独立運動が起こり、セレウコス朝は衰退期に入っていく。
2つの都
セレウコス朝は、2つの都を持っていた。イラクのセレウコスとシリアのアンティオキアである。
イラク(メソポタミア)の中心地は、バビロンであったが、セレウコスが建設されると多くの人々がセレウコスへ移住した。セレウコスがパルティアに占領されると、パルティアはセレウコスの対岸にクテンシフォンを建設した。7世紀にイスラム勢力がイラクを征服すると、クテンシフォン近郊にバグダードが建設。これが現在のイラクの首都である。
アンティオキアは、シリアの北にある地中海沿岸の都市で現在はトルコ共和国の領土になっている。それまでのシリアの中心は南部で、フェニキア人の拠点であったシドン・ティルスとアラム人の拠点であったダマスカスがあった。セレスコス朝が滅亡すると、ローマ軍が拠点をおいた。アンティオキアは、ローマ、アレキサンドリア(エジプト)に次ぐ第3の都となった。キリスト教が成立すると、この3つの都市に総主座が置かれた。これにコンスタンティノープルとエルサレムが追加された五本山となった。
中世の十字軍の時代になるとアンティオキア侯国が置かれた。