紀元前4世紀のシリア・パレスチナ アレキサンダーの東方遠征

前回の復習 3世紀のシリア・パレスチナ

 3世紀のシリア・パレスチナは、ギリシャ人のセレウコス朝シリアの支配下にあった。

 第二次ユダヤ戦争に敗北したユダヤ人は、パレスチナを追われ、ローマ帝国各地に離散した。これをディアスポラという。

紀元前4世紀の国際情勢

 紀元前4世紀(BC400年ーBC301年)の日本は、縄文時代。中国は、春秋戦国の戦乱期。その戦乱を避けて、多くの人々が日本へ渡った。彼らは、日本では渡来人(とらいじん)と呼ばれた。

 西洋では、アレキサンダー大王の時代。アレキサンダー大王の東方遠征は、インドまで至った。

セレウコス朝シリアの成立

後継者争いとヘレニズム3国

 24年、アレキサンダー大王が若くして急死した。後継者を指名しなかったため、ここから後継者争いが始まった。これがディアドコイ戦争と言われている。

 ちなみに、アレキサンダー大王は「後継者は、最も強いもの」を遺言を残した逸話も残っている。

 最有力者は、アンディゴノスであった。アンディゴノスは、アレキサンダー大王の出身地であるマケドニアで後継者宣言をおこなった。

 しかし、多くの武将がこれに従わなかった。これにより、有力武将たちによる権力闘争が行われた。ここで生き残ったのが、シリアのセレウコスとエジプトのプトレマイオスであった。

 これにより、アレキサンダー大王が広げたマケドニアは、アンディゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの3国に分割された。

 ここからは、シリアに建国されたセレウコス朝シリアのその後を見ていく。

中央アジア(バクトリア)を征服する

 06年、セレウコス朝は、中央アジアのバクトリアを征服した。

インド(マウリア朝)への侵攻を失敗する

 翌05年、セレウコス朝は、インドへ侵攻した。この地は、アレキサンダー大王が諦めた土地である。

 ただ、インド侵攻は苦戦した。なぜなら、17年にインドの統一王朝であるマウリア朝が成立していたためである。セレウコスは、マウリア朝と講和。インドをマウリア朝に返還。代わりに500頭の象を受け取った。

 当時の象は、現代の戦車のような役割を持っていた。01年、アンディゴノス朝マケドニアと戦争になる。セレウコスは、マウリア朝から獲得した象を用いて勝利した。これにより、セレウコスは、小アジア(トルコ西海岸)を獲得した。

2つの都の建設

 セレウコスは、インドと講和すると、05年に新たな都を建設した。場所は、チグリス川中流である。この地を自分の名を取ってセレウコスと名付けた。

 それまで、中東の中心地は、チグリス川下流域のバビロンであった。アレキサンダー大王もバビロンに拠点をおいた。

 アレキサンダー大王は、バビロンに帰還してこの地で息を引き取った。そのため、縁起が悪いと考えたか。もしくは、中央アジア(バクトリア)統治のために拠点を北に移したかは不明である。

 その後、イラク(メソポタミア)の中心地は、クテンシフォン(パルティア・ササン朝)、バグダード(イスラム)へと変化していく。

 セレウコスは、その後、新たな都市の建設を行った。シリアの北の港町アンティオキアである。

 01年、セレウコス朝などの連合軍は、イプソスの戦いでアンディゴノス朝マケドニアに勝利。セレウコス朝は小アジア(トルコの西海岸)を獲得した。翌00年、小アジアとシリアの間の地に港湾都市アンティオキアを建設した。

 紀元前2世紀にイラク(メソポタミア)がパルティアに奪われると、セレウコス朝の拠点は、セレウコスからアンティオキアに移った。その後、都市は急速に成長。ローマ時代には、ローマ、アレクサンドリア(エジプト)次ぐ、3番目に大きな都市になった。

アレキサンダー大王の東方遠征

概要

 セレウコス朝を開いたセレウコスは、アレキサンダー大王の武将の一人であった。ここでは、アレキサンダー大王の東方遠征を見ていく。

 アレキサンダー大王の東方遠征は、34年にはじまり、23年になくなるまで続いた。

アケメネス朝の滅亡

 最初の戦いは、ペルシャ戦争の報復戦であるアケメネス朝との戦いである。

 34年夏、ダーダネルス海峡(のちのイスタンブール)をわたり、トルコへ侵攻。小アジア(トルコの地中海沿岸部)を征服。東へ向かった。

 33年1月、イッソスの戦いで、ペルシャ国王に勝利。

 32年1月、シリアを征服。

 32年冬、エジプトを征服。アレキサンドリアを建設した。

 31年末、イラク(メソポタミア)のバビロンに入城。30年1月、アケメネスの都メルセポリス(イラン)に入城。アケメネス朝は、滅亡した。

インド遠征

 アレキサンダー大王は、アケメネス朝を滅ぼすと、さらに東へ侵攻した。

 29年、中央アジア(バクトリア、ソクディアナなど)へ侵攻した。27年、アレキサンダー大王は、中央アジアの豪族の娘と結婚した。

 27年秋、インドへ侵攻した。インド西北部の象部隊に苦戦。部下の要望により、25年、撤兵する。

アレキサンダー大王の死

 アレキサンダー大王は、インドから撤兵。

 24年、スサ(イラン)で集団結婚式。アレキサンダー大王は、旧アケメネス王家の娘を2人を娶った。さらに部下にイランの貴族の娘と結婚させた。

 23年、バビロンへ帰還。この後、地中海方面への侵攻を検討していた。しかし、アレキサンダー大王は急死した。これにより、アレキサンダー大王の東方遠征は終わった。

アケメネス朝イランの支配

 アレキサンダー大王の東方遠征前の中東は、アケメネス朝の支配下にあった。アケメネス朝は、6世紀に中東(オリエント)を統一した。