紀元前5世紀のシリア・パレスチナ フェニキア人から見たペルシャ戦争

前回の復習 紀元前4世紀のシリア・パレスチナ

 紀元前4世紀は、アレキサンダー大王の時代である。シリア・パレスチナも影響を受けた。アケメネス朝の支配下にあったシリア・パレスチナは、アレキサンダー大王に征服される。その後二成立したのが、セレウコス朝シリアである。

 今回は、アレキサンダー大王以前のシリア・パレスチナを見ていきます。

紀元前5世紀の国際情勢

 紀元前5世紀(BC500年ーBC401年)の日本は縄文時代。

 中国は、春秋戦国の戦乱期。諸子百家が登場したのもこの時代である。ヨーロッパでは、ギリシャがペルシャ戦争でアケメネス朝に勝利。

アケメネス朝の地方統治

アケメネス朝

 アケメネス朝は、紀元前6世紀にオリエント(中東)を統一した王朝である。アケメネス朝は、イラン人の王朝である。

地方のトップ (サトラップ)

 オリエントは、広大な地域であり、様々な民族が生活していた。

 アケメネス朝は、それぞれの地域の有力者に統治を任せた。彼らはサトラップと呼ばれた。

 では、なぜアケメネス朝は、このような地方統治政策を取ったのであろうか。それは、その前にオリエントを統一したアッシリア王朝の失敗がある。アッシリア王朝は、紀元前7世紀にオリエントを統一した王朝である。アッシリア王朝は、地方の有力者を都に強制移住させ、中央から地方長官を任命した。そのため、地方の反乱が発生、短命に終わった。

王の目、王の耳

 アケメネス朝は、サトラップたちが反乱を起こさないように、中央から監視官を配置した。この監視官を王の目、王の耳と呼ばれた。

アケメネス朝とユダヤ教

アケメネス教の宗教政策

 アケメネス朝の王家を中心としたイランの人々は、当時ゾロアスター教を侵攻していた。しかし、この宗教を他の民族に強制することはなかった。

ユダヤ教

 アケメネス朝の宗教の寛容性を示したのが、ユダ王国のユダヤ教信仰である。ユダヤ教は、6世紀に成立した宗教で、ヘブライ人を中心に侵攻されるようになった。

 アケメネス朝は、ユダヤ教信仰を迫害することはなかった。

ペルシア戦争とフェニキア人

ペルシャ戦争

 ペルシャ戦争は、00年から49年まで続いたギリシャとアケメネス朝ペルシャとの戦争である。アケメネス朝は、オリエントを統一している大国。一方、ギリシャは、都市国家の集まりに過ぎなかった。ギリシャは、大国のアケメネス朝を撃退した。古代ヨーロッパ版蒙古襲来といえる。

フェニキア人 vs ギリシャ人

 ペルシャ戦争のはじまりは、イオニア地方(トルコの地中海沿岸部)のギリシャ人の反乱であった。当時のイオニア地方は、アケメネス朝が支配していた。

 アケメネス朝は、フェニキア人の商業活動を支援していた。フェニキア人を保護した。

 フェニキア人とギリシャ人は、地中海と黒海沿岸に植民市を建設し、海上交易で栄えていた。そのため、フェニキア人とギリシャ人はライバル関係になった。

 ペルシャ戦争でギリシャが戦争に勝利すると地中海東部はギリシャ商人が制海権を握った。フェニキア人は、北アフリカのカルタゴを中心に、西地中海の交易が中心となった。

アケメネス朝の経済

 アケメネス朝は、多くの民族と広大な領土を持っていた。そのため、商業活動が大きく発展した。陸上交易はアラム人が行い、海上交易はフェニキア人が担った。また、紀元前6世紀にリディア(現在のトルコ)で金貨の鋳造が始まる。アケメネス朝はリティアを征服すると、リディアで鋳造された金貨を使ったこうえきが始まった。