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1980年代前半の衆院選 ロッキード事件と中曽根政権

83年12月 ロッキード事件判決選挙

中曽根政権

 80年のハプニング解散で自民党が勝利。鈴木首相が誕生した。

 82年11月、中曽根政権が誕生した。

ロッキード事件判決

 83年7月、中曽根政権は、高支持率を背景に衆参同日選挙を行うものと思われた。しかし、これを避けた。

 83年10月、ロッキード事件の第一審判決が出た。有罪で実刑判決

河野氏の新自由クラブとの連立

 中曽根首相は、衆院選で敗北。追加公認で何とか過半数を確保した。しかし、安定多数を確保することができなかった。そのため、河野洋平氏らの新自由クラブと連立政権を組んだ。

 安定多数とは、すべての委員会で過半数を取れる議席数である。各委員会で過半数を確保することで議会運営が容易になる。(委員会とは、本会議前に法案等を審議する場所。通常委員会で可決されないと本会議で審議されない。)

新自由クラブとは、

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1970年代の衆院選 派閥全盛期の衆院選

80年06月 ハプニング解散

40日抗争とハプニング解散

 79年10月、衆院選で自民党は過半数割れの大敗。反主流派の福田派らは大平首相の退陣を要求した。しかし、大平首相はこれを拒否した。

 自民党は、首相候補を一本化できずばらばらに投票することになった。最終的には、大平首相が選出された。

ハプニング解散

 80年5月、社会党ら野党は内閣不信任案を提出。追加公認で自民党は過半数を確保しているので否決されるはずであった。しかし、福田派らの自民党反主流派が欠席。内閣不信任案が可決。大平首相は、衆参同日選挙へ踏み切った。

大平首相、憤死

 6月、衆院選の選挙活動中に大平首相は心不全で亡くなった。自民党は、大平首相の弔い合戦で共闘体制が構築された。

自民党大勝

 自民党は大勝。単独で安定多数を確保した。これによって保革伯仲国会は終了した。次期首相には。大平派の鈴木氏が就いた。

野党の結果

社会党は、現状の議席数を確保した。

大幅に議席を減らしたのは、公明党、民社党、共産党であった。

 一方、河野洋平の新自由クラブは議席を増やした。

79年10月 40日抗争へ

大福密約

 78年総裁選。大福密約で大平首相が選出されるはずであった。しかし、福田首相は高支持率を背景に総裁選へ出馬した。結果、田中派の支持を受けた大平氏が勝利。大平政権が誕生した。

大平首相と消費税

 経済では田園都市構想で景気回復を図ろうとした。一方で、外交政策では、福田政権の全方位外交を転換。親米路線をとった。それ一例がモスクワオリンピックのボイコットである。元号法を成立させて、元号に法的根拠を与えた。

 79年10月に総選挙へ踏み切った。大平首相は公約に消費税の導入を挙げようとした。しかし、これは取り下げられた。

40日抗争へ

 自民党は、大敗した前回選挙からさらに1議席減らした。追加公認でかろうじて過半数を維持した。

 ロッキード事件の余波に加え、大平首相の消費税導入発言が問題視された。

 大平首相はこの選挙を勝利として続投に意欲を燃やした。しかし、福田元首相らは退陣を求めた。これにより四十日公行層が勃発した。

野党の結果

 社会党は10議席を減らし、野党の分裂はさらに促進された。

 共産党が多きに躍進、議席を倍増させた。

 公明党と民社党も議席を増やした。

 一方、新自由クラブは壊滅的な敗北で4議席になった。

76年12月 ロッキード事件

三木政権とロッキード事件

 74年、金脈スキャンダルで田中角栄首相が退陣。反田中派の福田赳夫氏と親田中派の大平正芳氏が対立した。そこで中間派の三木武夫氏が折衷案で首相になった。

 三木首相は、金脈スキャンダルを受けて政治改革を断行しようとしたが田中派などの反主流派の反発で実行できなかった。

 この時代、田中首相の列島改造論で財政が肥大化。歳出削減が急務であった。しかし、オイルショックで物価が高騰。歳出削減が進まず。この頃から赤字国債の発行が常態化した。

 三木首相は、早期に解散総選挙へ踏み切りたかった。しかしそれができなくなった。それが76年2月のロッキード事件である。これは、アメリカで発覚した田中前首相の収賄事件である。

三木おろしで解散できず

 三木首相はロッキード事件を徹底追及を行うことを国民に約束した。田中派に脅威を与えた。田中派は、福田派を味方につけて、三木首相の退陣を試みた。

新自由クラブ

 76年6月、自民党のロッキード事件への対応に反発。河野洋平氏らが自民党を離党して新自由クラブを結党した。

 7月、田中前首相が逮捕。翌8月に保釈される。

 9月、三木首相は閣議で解散を実行しようとした。しかし、閣僚の大部分が反対した。罷免して解散をすることもできたが、三木首相は政治理念に反するとしてこれを行わなかった。

 任期切れにより、12月に総選挙が実施された。

自民党大敗 保革伯仲国会で福田政権へ

 自民党は、過半数割れの大敗を喫した。(追加公認でかろうじて過半数を確保)。三木首相は、責任を取り辞任。大福密約で、福田政権が誕生した。

社会党躍進

 社会党は、ロッキード事件への批判票で大きく議席を伸ばした。しかし、政権を奪うほどの大勝はできなかった。その理由は、反自民の票の一部が公明党、民社党と新自由クラブへ流れたためである。

新自由クラブ 3倍の大躍進

 新自由クラブは、自民党にも社会党にも入れたくない人の支持を大きく集めた。これにより、議席を3倍にする大勝をした。

共産党敗北

 共産党は半数以上の議席を失い、17議席になった。

民社党・公明党 躍進

 公明党と民社党は、躍進。特に公明党は50議席を獲得した。

72年12月 角栄フィーバー

選挙は日曜日

 この選挙から、日曜日に選挙が行われるようになった。また、沖縄返還で定数が増加した。

角栄フィーバー

 72年5月、佐藤派の大部分の議員を引き抜き田中派を結成。6月、「日本列島改造論」を発表。翌7月の総裁選で福田赳夫氏を破り首相になった。

 9月、日米首脳会談後に、中華人民共和国を訪れる。日中公国交正常化を実現。

 12月、解散に踏み切った。

自民党勝利

 自民党は過半数を確保。しかし、前回の選挙から26議席を減らした。

 田中角栄首相は、

社会党躍進

 社会党は議席を3桁にもどした。当時の社会党は、極左の共産党と共闘しようとするグループと、中道左派の民社党、公明党と共闘しようとするグループが対立していた。この選挙で民社党、公明党が不振。共産党と共闘費用とするグループの発言力が高まった。

共産党躍進

 日中国交正常化で、中国共産党の悪いイメージが払しょくされた。その結果、議席を大きく伸ばし38議席を確保した。

公明党、民社党は不振

 議席を大きく落としたは、中道左派の民社党と公明党であった。特に公明党は言論出版妨害事件でイメージが悪化していた。

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2010年代の衆院選 安倍政権と3つの選挙

17年10月衆院選 安倍首相 vs 小池都知事

18歳選挙制

 この選挙から、選挙権が拡大。これまで20歳以上としていた選挙権を、18歳以上に引き下げた。

 この選挙が平成最期の選挙となった。

忖度 ~森友・加計問題~

 17年の予算委員会の審議が紛糾した。安倍首相のスキャンダルである。森友学園問題と加計学園問題である。森友学園問題とは、国有地を森友学園に格安で売却した問題である。加計学園問題とは、加計学園の経営する大学の学部新設に安倍首相の関係者が口利きをしたのではないかという疑惑である。

 この時期、使われた流行語は忖度(そんたく)である。直接は支持されていないが、相手をおもんばかって行動することである。その背景には、内閣人事局の設置がある。13年の国家公務員法の改正で成立した部署である。それまで、官僚が行っていた人事のうち、幹部の人事については内閣人事局が一元管理をするようにした。この結果、官僚は、首相などの官邸の人たちに忖度するようになった。

 ちなみに、内閣人事局の設置を進めたのは、当時の官房長官である菅氏である。また、初代局長になった加藤氏は、菅政権で官房長官を務める。

17年7月 都議選

 小池都知事は、前年16年の都知事選出馬のために、自民党を離党。自民党公認候補を破って、都知事になった。

 17年1月、小池都知事を支援する都議会議員が都民ファーストの会を結党。

 17年7月の都議選に勝利。都民ファーストの会は、都議会自民党からだ1党の座を奪った。

17年9月 解散へ

 安倍首相は、9月25日、臨時国会の冒頭で衆議院を解散した。安倍首相は、「国難突破解散」であると語り、19年の消費税増税の使途北朝鮮のミサイル問題を争点に掲げた。

 マスコミや野党は、臨時国会で森友・加計問題について追及されるのを避けるためだと非難した。

小池都知事と希望の党

 同9月、小池都知事は、小池都知事を支援するために自民党を離党した国会議員のために、国政政党の希望の党を結党した。

 同9月、野党第1党の民進党が希望の党への合流を決めた。民進党とは、16年3月に民主党と維新の会が合流してできた政党である。

リベラル政党 立憲民主党

 記者会見で、小池都知事は「考えの違う議員を議員を受け入れますか」という質問に、「排除します」と回答。

 リベラル系議員の有力議員は、無派閥で出馬することになった。しかし、若手の選挙に弱い議員は混乱した。そこで、枝野氏が立憲民主党を結党。リベラル系議員の受け皿になった。

自民党 漁夫の利を得る

 当初、逆風を予測されていた自民党は、野党の分裂で議席数を減らすことはなかった。

 本来、安倍首相は、翌18年10月で2期6年で任期満了であったが、この選挙結果を受けて任期を延長。3期6年の21年10月までとなった。

立憲民主党

 立憲民主党は、当初少数政党になると見込まれていた。しかし、枝野氏のSNS戦略や小池発言への同情から次第に勢力を拡大。また、本格的なリベラル政党の復活に多くの人が期待を寄せた。15議席から55議席に拡大。希望の党を抜いて野党第1党になった。

希望の党

 一方、希望の党は、予定よりも議席を増やすことができず。7議席減の50議席にとどまった。

 小池都知事は、責任を取り希望の党の代表を降りた。18年5月国民民主党として再出発した。

14年12月衆院選 アベノミクス

消費税増税

 消費税は、民主党政権下で段階的に増税することが決まった。14年4月、予定通り消費税は5%から8%に増税した。安倍首相は、15年10月の消費税増税の先送りを発表。この是非を問うために解散へ踏み切った。

 ちなみに、この選挙から法律上、平成生まれの国会議員が誕生するが今回はなかった。

公平な報道

 14年9月、安倍政権は内閣改造を実施。総務大臣に高市氏を付けた。

 14年11月、自民党副幹事長がTVのマスコミに対して、公平な報道への要望書を出した。報道機関は反発した。

 16年2月の予算委員会で、高市大臣は放送法に基づく電波停止を示唆した。

 これが21年9月の総裁選の報道姿勢に現れた。

選挙結果 自民党 現状維持

 この選挙で議席に大きな変動はなかった。自公政権は、3分の2の議席を維持した。安倍首相は、この選挙結果を受けて、15年の総裁選挙で無投票再選を果たした。

選挙結果 民主党 代表が落選

 民主党は、議席を増やすも政権交代に至らなかった。また、民主党代表の海江田氏がこの選挙で落選した。

選挙結果 維新の党 微減

 14年9月、大阪市長の橋本氏の日本維新の会と旧みんなの党の枝氏らが合流。維新の党を結党した。

 今回の選挙では、1議席減の41議席になり、第3極を作ることができなかった。

 維新の党は、野党再編で分裂。一部の議員が離党し、大阪維新の会を発足。

 16年、民主党と合流し、民進党になった。

選挙結果 新党は惨敗

 新党は、ほとんど議席を獲得できなかった。議席を獲得できたのは、小沢代表の生活の党と石原慎太郎氏の次世代の党の見であった。

12年12月衆院選 政権奪回

近いうち解散

 12年臨時国会。民主党の野田首相はねじれ国会に困っていた。安倍総裁との党首討論の場で、近いうちに解散することを条件に安倍総裁に消費税増税法案の可決を約束。

 消費税増税が可決。12年12月野田首相は約束通りに解散を行った。

新党ブーム

 この頃、新党ブームが起こる。解散時には国政政党が16あり、合流を経て12の政党が出馬した。与党の民主党、社民党、国民新党。主要野党の自民党、公明党、共産党以外に以下の党が出馬した。

  • 渡辺喜美氏や江田氏らのみんなの党
  • 小沢代表らの日本未来の党
  • 橋本府知事の日本維新の会
  • 鈴木宗男氏の新党大地
  • 舛添氏らの新党改革
  • 田中氏(長野県知事)らの新党日本

自民党 政権交代へ

 自民党は、単独で安定多数を確保。連立与党で3分の2を確保した。これにより、第2次安倍政権が成立した。

民主党

 惨敗。議席が4分の1に激減。現職閣僚が多数落選した。

新党の勝ち組

 新党で議席を大きく伸ばしたのは、関西の日本維新の会と関東のみんなの党であった。14年、この2つの党は後に合流し、維新の会となる。