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アメリカ史

1880年代のアメリカ 共和党と民主党

1880年代、日本は大日本帝国憲法が発布された時代である。ヨーロッパでは、アフリカ分割にいそしんでいた。

この頃のアメリカは、二大政党制が確立された。民主党と共和党である。同じ頃、アメリカ労働総同盟(AFL)がせいりつした。また、この頃から移民問題が政治問題化した。

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フランス史

1880年代のフランス ベトナムとアルジェリア

 1880年代、日本では、明治政府は大日本帝国憲法を制定。国会が開設された。

 ヨーロッパは、ドイツのビスマルク外交によって平和が保たれていて、安心して植民地拡大を進めることができた。アフリカ=コンゴ会議でヨーロッパ列強はアフリカへ向った。

 フランスは、第三共和制の時代である。普仏戦争の敗北やパリ=コミューンの発生により70年代の不況に入った。そのため、海外市場に向かった。植民地拡大を進めていた。アジアでは、清王朝に勝利し、ベトナムを植民地化。アフリカでは、エジプトでの影響力を失い、アルジェリアを拠点に進めていくことになる。

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イギリス史

1880年代のイギリス アフリカ分割とグラッドストン首相

 1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。このころ、日本ではノルマントン号事件が発生。イギリスと領事裁判権をめぐる交渉がこのころから始まった。

 この時期、帝国主義の舞台はアフリカに移った。アフリカ=コンゴ会議によってアフリカ分割は加速した。イギリスは、自由党と保守党の2大政党制が続いていた。しかし、アイルランド問題で自由党が分裂。これを機に自由党は徐々に衰退に向かっていく。

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ロシア史

1880年代のロシア アフガン王国をめぐる戦い

1880年代、日本では大日本帝国憲法が発布。国会が開設された。この頃、ロシア帝国は70年代のベルリン会議で地中海からの進出を断念した。80年代、ロシア帝国は中央アジアからのルートを模索した。

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トルコ・ギリシャ史

1880年代のオスマン帝国 アブデュル=ハミト2世の専制政治

80年代、日本が大日本帝国憲法を制定した。ヨーロッパではビスマルク外交による平和が保たれる一方で、アフリカ分割が急速に進んだ。

そのころ、オスマン帝国では、70年代の露土戦争の敗戦でバルカン半島の大部分を失った。一方で、70年代の初頭にミドハトが失脚。スルタンのアブデュル=ハミト2世の専制政治が行われていた。

90年代のオスマン帝国

 90年代、ヨーロッパの外交関係は大きく変わった。ビスマルクの引退である。これにより、ヨーロッパは、3つの陣営に集約されていった。ドイツ陣営、フランス・ロシア陣営(露仏同盟)、イギリス陣営である。

 オスマン帝国は、ドイツ陣営に接近していった。そして登場したのが3B政策である。ベルリンからペルシャ湾(インド洋)を鉄道でつないでドイツの工業製品をアジア各地へ販売しようとする政策である。

80年代のヨーロッパ

 80年代のヨーロッパは、ビスマルク外交によって平和な時代が続いた。一方で、70年代の不況によって帝国主義政策が本格化していた。この時代、注目されたのがアフリカ大陸であった。85年のベルリン=コンゴ会議が開かれると急速にアフリカ分割が進んだ。

アブデュル=ハミト2世の専制政治

 70年代、ミドハトがミドハト憲法を制定。立憲君主制への移行を試みた。しかし、アブデュル=ハミト2世は憲法を停止。ミドハトを失脚させ、スルタンの専制政治が行われた。

しかし、西洋化政策は引き続き行われた。この時期の西洋化政策の特徴は、後述のオリエント急行である。

 これは、19世紀前半のイギリスとフランスを比較して、イギリス型の政治スタイルをとろうとしたためである。立憲君主制を選択したイギリスは、革命の影響は大きくなくこの時代、大帝国になった。一方、フランスは、19世紀前半に革命が頻発。多くの血を流した。

 これは、19世後半から20世紀初頭の日本とトルコの関係につながる。立憲君主制へ移行できなかったトルコは、青年トルコ革命、トルコ革命と革命が頻発。ついにはオスマン帝国は滅亡し、トルコ共和国へとなった。一方で日本は、80年代に大日本帝国憲法を制定。無理をして立憲君主制を維持した。その結果、日露戦争、第一次世界単線に勝利。国際連盟では常任理事国となる国へと変貌した。

 この結果は、どこから来たのだろうか。憲法制定への時間の掛け方かもしれない。ミドハト憲法は、70年代に制定された。一方、大日本帝国憲法は10年もの時間をかけて80年代に制定された。日本は、この期間にミドハト憲法の停止も見ている。このことも配慮して憲法を制定している。

露土戦争で失ったもの残ったもの

 オスマン帝国は70年代の露土戦争でバルカン半島の大部分を失った。バルカン半島北部のルーマニア、セルビア、モンテネグロはこの時独立を果たした。バルカン半島東部のブルガリアはオスマン帝国から自治権を得た。

 一方で、バルカン半島南部のアルバニアとマケドニアは一時ブルガリア領になったが、ベルリン会議でオスマン帝国領として残った。この残されたアルバニアとマケドニアをめぐり1910年代2度にわたるバルカン戦争が行われ、これが第一次世界大戦につながる。

オリエント急行開通

 この時代、フランスのパリとオスマン帝国コンスタンティノープルイスタンブール)を結ぶオリエント急行が開通した。オリエント急行はフランスのパリとオスマン帝国イスタンブールを6日間で結んだ。

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イラン・ペルシャ史

1880年代のカジャール朝イラン アフガニスタンがイギリスの保護国に

1880年代、日本は大日本帝国憲法が制定され、黒海が開設されたころである。そのころ、イランはカジャール朝の時代である。中央アジアではイギリスとインドがグレートゲームを展開していた。

カジャール朝とは

 カジャール朝は、18世紀末アフシャール朝から独立してイランを統一したトルコ系遊牧民族の国家である。北のロシア帝国やイギリス(インドへ進出)に利権をばらまいたことでイラン国民の支持は低かった。

アフガン王国

第二次アフガン戦争

イランの東隣、アフガニスタンでは、第二次アフガン戦争が終結。第二次アフガン戦争に勝利したイギリス(イギリス領インド)は、アフガン王国から外交権を奪い、保護国とした。

 80年、アフガン王国で反乱。イギリス軍は反乱軍に敗北。イギリスはアフガン王国の直接統治をあきらめた。

その後のアフガン王国

 1918年、アフガン王国は第一次世界大戦で疲弊したイギリスに宣戦。第3次アフガン戦争が勃発。翌1919年、アフガン王国、第3次アフガン戦争に勝利。独立を回復した。

ロシア帝国の中央アジア進出

 アフガンの北東、中央アジアではトルキスタンがロシアの進出に抵抗していた。しかし、81年トルクメンがロシア軍に敗北。ロシアの中央アジア併合は完了した。この地域は、91年のソ連解体までロシアの勢力下になる。

ペルシア帝国銀行設立

 85年、カジャール朝ペルシアでは、イギリス資本によりペルシア帝国銀行を設立。カジャール朝ペルシアは、通貨発行権を認めた。また、89年には、同行へ石油採掘権を与えた。これにより、カジャール朝ペルシアは、イギリスに財政・金融を支配されるようになる。これが1891年のタバコボイコット運動につながる。

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インド史

1880年代のインド ビルマ併合

1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。

 このころ、インドはイギリスの植民地であった。このころインドにも議会が成立した。インド国民会議である。また、東南アジアでは第三次ビルマ戦争が勃発した。

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中国史

1880年代の清王朝 フランスにベトナムを奪われる

 1880年代の清王朝は、3つの対外戦争の危機に瀕していた。1つ目は、ロシア帝国中央アジアをめぐり対立していた。2つ目はフランスと東南アジアのベトナムの宗主権をめぐる対立。3つ目は、日本と朝鮮半島の宗主権をめぐる対立であった。ロシアとは、イリ条約で、日本とは天津条約で平和的に解決できたが、フランスとは清仏戦争に発展。敗戦により、ベトナムの宗主権を失った。一方、清王朝内部は、反キリスト教運動が盛んになった。

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日本史

1880年代の日本 大日本帝国憲法

 1880年代、日本では国会が開設された。その中心人物は、伊藤博文である。