1880年代のロシア アフガン王国をめぐる戦い

1880年代、日本では大日本帝国憲法が発布。国会が開設された。この頃、ロシア帝国は70年代のベルリン会議で地中海からの進出を断念した。80年代、ロシア帝国は中央アジアからのルートを模索した。

アフガニスタン問題(vsイギリス領インド)

 アフガン王国(現在のアフガニスタン)は、中央アジアの国である。ロシアはここを通ってインド洋へ出るルートを求めていた。そのため、のどから手るほど重要なポジションであった。

 一方で、アフガン王国はイギリス領インドにも接していた。70年代の第2次アフガン戦争でイギリス領インドはアフガン王国を保護国とした。

 80年代に入り、アフガン王国で反イギリスの反乱が頻発した。80年代に組閣されたグラッドストン自由党内閣はアフガニスタンから撤兵した。

 85年、ロシア軍がアフガンに侵入。イギリスとの関係が急速に悪化した。87年に国境を定めて停戦に至った。

英露対立とビスマルク

 85年アフガンでの英露対立は激化した。翌86年、ロシア帝国はベルリン条約を破棄した。ビスマルクは、ロシア帝国との関係を改善。翌87年独露再保障条約を締結した。同じ年、英露も国境を策定。ビスマルク外交は保たれた。

 しかし、90年代にビスマルクが引退すると、ドイツ帝国は、独露再保障条約を破棄。ロシア帝国はフランスと露仏同盟を締結し、ドイツとの戦争に備えた。

 なお、88年黒海とカスピ海を結ぶカフカス横断鉄道が完成した。

中央アジアの統一

 81年、皇帝アレクサンドル2世がテロで暗殺。アレクサンドル3世が即位した。

 ロシア帝国は、中央アジアへ侵攻。トルクメニスタンを征服。これにより、ロシア帝国は中央アジア5か国を統一した。

 一方で、清王朝(中国)とイリ条約を締結。イリ地方(新疆ウイグル自治区)を清王朝へ返還した。

なぜ、中央アジアへ向ったのか

 ロシア帝国は、当初南下政策とは別の目的で中央アジアへ向った。60年代、アメリカで南北 戦争が勃発。アメリカ産綿花の供給が止まった。ヨーロッパの綿花価格が高騰した。そのため、綿花の産地中央アジアへ向った。

 70年代、ベルリン会議でバルカン半島からの進出の道が閉ざされた。そのため、ロシアは新たなルートとして中央アジアからのルートを模索した。

 80年代、中央アジアでのイギリスとロシアの対立が終わるとロシア帝国に新たなルートが登場した。清王朝である。90年代に清王朝が日清戦争に敗北するとロシア帝国は日本海からの進出を模索した。

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