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フランス史 未分類

7世紀のフランク王国 イスラム教の成立とメロヴィング朝の衰退

7世紀、日本は飛鳥時代大化の改新が行われたころである。

 このころ世界では、預言者ムハンマドが神の啓示をうけた。イスラム教の始まりである。

 ヨーロッパでは、地中海を支配していたビザンツ帝国が急速に衰退。代わりに台頭してきたのがフランク王国などのゲルマン民族である。

イスラム教の成立

 7世紀最大の出来事は、イスラム教の成立である。イスラム教の拡大スピードはすさまじく、7世紀中に中東全域を席巻した。イスラム帝国の拡大は、6世紀の中東の2大帝国を衰退させた。トルコのビザンツ帝国とイランのササン朝ペルシアである。

 ササン朝ペルシアは、7世紀に滅亡。多くのペルシア人が東へ亡命した。唐の長安ペルシア人が多数生活し、日本の平城京(奈良)に渡ったものもいる。 

 10年 預言者ムハンマド、神の啓示を受ける。
 22年 預言者ムハンマド、メッカを追われメディナに移住(ヒジュラ
 30年 預言者ムハンマド、メッカを征服
 32年 預言者ムハンマド、亡くなる。正統カリフ時代に入る。
    正統カリフ時代に、ササン朝ペルシアが滅亡
    ビザンツ帝国も、シリア・エジプトを奪われる。
 61年 シリア系ウマイヤ朝成立
    スンナ派ウマイヤ朝支持)VS シーア派(反ウマイヤ朝)の内紛が起こる。
    これにより、イスラム帝国の拡大は一時休止する。

イスラム帝国拡大で
 ビザンツ帝国はピンチ

 ビザンツ帝国も、イスラム帝国の拡大により急速に衰退する。6世紀のビザンツ帝国は、ユスティアヌス帝の全盛期であった。地中海沿岸のゲルマン諸国を次々滅亡させ、地中海を再統一した。しかし、正統カリフ時代には、シリアやエジプトを失う。

 16年 西ゴート王国により、スペインから撤退
 26年 アヴァール人が首都コンスタンチノーブル包囲
 36年 イスラム軍(正統カリフ)に敗北。シリアを奪われる。
     この時シリア総督になったのがウマイヤ朝を開くウマイヤ家である。
 41年 イスラム軍(正統カリフ)により、穀倉地帯エジプトを失う
 74年 イスラム軍(ウマイヤ朝)、首都コンスタンチノーブル包囲

フランク王国(フランス)
王家メロヴィング家が衰退

 このころ、フランスを支配していたのは、フランク王国である。6世紀にはアルプス山脈以北(ドイツ・フランス)の全域を支配していた。

 フランク王国は、メロヴィング朝の時代である。しかし、分割相続で親族同士の対立が激化。フランク王家メロヴィング家は衰退していた。13年には、ロータル2世が内乱を鎮めたが、ロータル2世が亡くなるとまた対立は激化した。

 代わりに台頭したのが宮宰をつとめるカロリング家であった。宮宰は、フランク王国で最高位の役職で87年には宮宰ピピンが実権を握るようになる。

キリスト教とイタリア

 6世紀に西ローマ帝国が滅亡したイタリアの状況はどのようになっていたのだろうか。6世紀から7世紀にかけて様々な勢力によって分裂していた。

 北イタリアは、ビザンツ帝国から独立したランゴバルド王国。中央部は、東のラヴェンナ地方にビザンツ帝国の総督領が、西のローマにはローマ教皇領があった。それ以外も分裂していた。イタリアの南、北フリカのチュニジアは、7世紀末にイスラム勢力(ウマイヤ朝)に入った。

 フランク王国は8世紀にローマ教皇の要請に基づいて分裂状態のイタリアへ侵攻していく。

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イギリス史 未分類

7世紀のイギリス キリスト教の伝来

7世紀、日本は飛鳥時代聖徳太子の時代から大化の改新を経て天武・持統天皇の時代である。

 この頃、イギリスはアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。この時期にアングロサクソン人はキリスト教を信仰するようになった。

アングロ=サクソン七王国の戦乱期

 8世紀はアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。その中で8世紀最も力を持っていたのは、北部のマーシア国であった。
 アングロ=サクソン人は、5世紀にイングランドを征服。当時は国家が形成されていたなかったが、小国が乱立するようになる。6世紀に入ると7つの国へ絞られていった。この七王国をアングロ=サクソン七王国ヘプターキー)と呼ばれるようになる。
 さて、今回は、アングロ=サクソン七王国キリスト教が布教が始まる様子を見ていきます。
 

7世紀のヨーロッパ

 7世紀最大の出来事はイスラム教の成立である。それまで、中東はビザンツ帝国ササン朝ペルシアで分割されていた。6世紀、ビザンツ帝国はユスティアヌス帝の最盛期で、地中海の再統一を実現した。一方で、ササン朝ペルシアもホスロー1世の最盛期で、中央アジアのエフタルを滅ぼした時代である。しかし、7世紀にはいると、ササン朝ペルシアは滅亡。ビザンツ帝国も、穀倉地帯のシリア、エジプトや地中海の制海権イスラム教徒へ奪われた。

 ビザンツ皇帝レオン1世はこれに危機感を抱いた。そこで、「聖像禁止令」を出した。(ビザンツ皇帝はコンスタンチノーブル教会のトップを兼任していた。)「聖像禁止令」とは、キリスト関連の彫刻や絵画を作ることを禁止した法律である。これに独自路線を歩み始めたローマ教皇は反発した。なぜなら、当時のローマ教会の最大のミッションはゲルマン人への布教であったからである。ラテン語を読めないゲルマン人への布教には聖像は必要不可欠であった。この頃から、コンスタンチノーブル教会(東方正教会)とローマ教会(ローマ=カトリック)の対立は明確化してきた。

キリスト教の布教伝来

カンタベリー大聖堂

 6世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に進めた。イングランドへ修道士が派遣された。彼らはイギリス南東部のカンタベリーに拠点を置いた。現在、ここにはカンタベリー大聖堂がある。修道士たちは南部のジュート人やサクソン人から布教を開始した。

 ちなみに、新興宗教の流行は戦乱期によく起こる。イングランドキリスト教伝来もアングロ=サクソン七王国の戦乱期に発生している。日本のカトリック伝来も16世紀の戦国時代に広まったし、中国の仏教伝来も、4世紀の五胡十六国時代に広まった。
 

アイルランドイングランドの宗教対立

 イギリスの先住民(アイルランドウェールズスコットランド)はすでにキリスト教を信仰していた。特にアイルランドには修道院を中心として教会組織が確立していた。そのため、ローマ教皇をトップとしたイングランドの教会組織としばしば衝突した。

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ロシア史

7世紀のロシア ビザンツ帝国とイスラム教

7世紀、日本は飛鳥時代中大兄皇子大化の改新を行ったころである。

 このころ、東欧のビザンツ帝国は、バルカン半島小アジアのみを支配していた。周辺には異民族がビザンツ帝国の領土を狙っていた。そして、7世紀に新たな脅威があらわれたイスラム教徒とブルガリアである。

 8世紀初頭の状況

 8世紀初頭、ビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕していた。その理由は2つの異民族である。1つ目は、イスラム教のウマイヤ朝シリアである。もう一つは、バルカン半島を支配していたアジア系騎馬民族であるブルガリアである。今回は、この2つの外敵がどのように登場したのかを見ていきましょう。

7世紀初頭の状況
3つの異民族の脅威

 7世紀初頭、ビザンツ帝国は、東欧南部のバルカン半島小アジア(トルコ)を支配していた。しかし、多くの異民族に囲まれていた。

北(東欧)からの侵略者 南スラヴ人

 南スラヴ人とは、旧ユーゴスラヴィアの大部分の民族でセルビア人やクロアチア人などがである。
 スラヴ人は、もともと東欧のポーランドに住んでいた。6世紀ごろからはじまる第二次民族大移動で各地へ移動を始めた。南スラヴ人ビザンツ帝国領内(バルカン半島)へ移住を始めたのもこのころである。

西(イタリア)からの侵略者
ゲルマン民族ランゴバルド族)

 バルカン半島の西、イタリアはランゴバルド族の領土であった。
 ランゴバルド族は、6世紀ユスティアヌス帝とともに東ゴード族を倒したゲルマン民族である。当初はビザンツ帝国に従っていた。しかし、ビザンツ帝国が衰退すると独立。イタリアを支配した。ラヴェンナを中心としたイタリア北東部に拠点をおき、この地域は現在、ロンバルディアと呼ばれている。
 ランゴバルド族は、8世紀中ごろ、ローマ教会と同盟を組んだフランク王国によって滅ぼされた。

東(中東)からの侵略者 ササン朝ペルシア

 ササン朝ペルシアは、ローマ帝国時代からの宿敵である。主な係争地は、黒海の東側カフカス地方(アルメニアジョージアなど)である。
 6世紀、中央アジアのエフタルを滅亡させると、再びビザンツ帝国へ侵攻した。聖地イェルサレムやエジプトまで進出した。
 しかし、10年ヘラクレイオス1世が即位すると形勢は逆転。ササン朝ペルシアの最大の都メソポタミアイラク)のクテンシフォン(バグダード周辺)を占領。シリア・エジプトを奪還した。
 なお、ヘラクレイオス1世の即位した610年から711年(レオン1世)までをヘラクレイオス朝という。

新たな敵、イスラム教の台頭

 このころ、中東のアラビア半島では新たな動きが起きた。10年ムハンマドイスラム教の布教を始めたのである。32年ムハンマドが亡くなった。このころになるとイスラム勢力はアラビア半島一帯を治めるようになる。

 ムハンマドが亡くなると、選挙でイスラム教のトップ(カリフ)を選ぶようになる。この32年~61年までの時代を正統カリフ時代という。42年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに大勝。ササン朝ペルシアを滅ぼした。

 この正統カリフ時代から、ビザンツ帝国との戦いが始まった。この時代にビザンツ帝国は、シリア、エジプトを失った。これら地域は小麦の生産地域であった。そのため、この地域を失うことでビザンツ帝国の衰退期が始まった。

8世紀の悩みの種 ウマイヤ朝シリアとブルガリア帝国

ウマイヤ朝シリアとは

 ウマイヤ朝シリアとは、正統カリフ時代が終了した後に成立した世界初のイスラム王朝である。都はシリアのダマスカスであった。

 61年、4代目カリフのアリーが暗殺。シリア提督ウマイヤ家のムアーウィヤが次のカリフに就任した。以後、カリフはウマイヤ家が世襲した。そのため、ウマイヤ朝と呼ばれた。
 ウマイヤ朝は、北アフリカを西へ侵攻。イベリア半島(スペイン)の西ゴード族と争うようになる。
 一方で、ビザンツ帝国への侵攻も強めた。74年には首都コンスタンチノーブルを包囲した。また、8世紀初頭に再びコンスタンチノーブル包囲を行う。

81年 ブルガリア帝国

 74年、ビザンツ帝国ウマイヤ朝が包囲されたころ、バルカン半島でも新たな敵が登場した。アジア系騎馬民族ブルガリアである。
 ブルガリアは7世紀にバルカン半島へ侵入した。アジアの騎馬民族の侵入は、4世紀のフン族に続き2回目である。
 7世紀にわたり、ブルガリアビザンツ帝国は抗争を続けた。74年のウマイヤ朝のコンスタンチノーブル包囲でビザンツ帝国が疲弊すると、81年ビザンツ皇帝はブルガリアと和平を結びブルガリア帝国を承認した。

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ロシア史

7世紀のロシア ビザンツ帝国から見たイスラム教の脅威

7世紀、日本は飛鳥時代中大兄皇子大化の改新を行ったころである。

 このころ、東欧のビザンツ帝国は、バルカン半島小アジアのみを支配していた。周辺には異民族がビザンツ帝国の領土を狙っていた。そして、7世紀に新たな脅威があらわれたイスラム教徒とブルガリアである。

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イラン・ペルシャ史

7世紀のイラン ササン朝の滅亡

 7世紀、日本は聖徳太子中大兄皇子らが活躍した飛鳥時代であった。

 そのころ、ペルシアではササン朝ペルシアが滅亡。イスラム勢力の支配下に入った。

 イスラム教は、7世紀初頭に始まった。当初小さな宗教集団であったが、この世紀でオリエントを統一する大帝国になった。

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インド史

7世紀のインド 三蔵法師が見たヴァルダナ朝

7世紀、日本は飛鳥時代聖徳太子法隆寺を建立したころである。

 このころ、仏教のふるさとインドではヴァルダナ朝であった。ヴァルダナ朝には全盛期の唐王朝(中国)から多く僧侶が留学してきていた。今回から、古代インドの4王朝をみていきます。

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中国史

7世紀の唐王朝 国際色豊かな長安

7世紀、日本は飛鳥時代に当たる。
このころ、中国は、隋王朝が滅亡し、唐王朝が成立した。唐王朝は、科挙を行う一方で、門閥貴族を優遇した。都の長安は、ペルシア人や日本人も闊歩し、国際都市になっていた。唐王朝期の文化も国際文化豊かな文化となった。

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日本史

7世紀の日本(飛鳥時代)大化の改新

7世紀、日本は飛鳥時代。聖徳太子が冠位十二階を定めた。その後、乙巳の変で有力豪族蘇我氏が滅亡。天皇家を中心とした国家が始まった。

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トルコ・ギリシャ史

7世紀のビザンツ帝国 イスラム教の成立

 7世紀、日本は飛鳥時代。このころ、中東ではイスラム教が成立した。イスラム勢力はビザンツ帝国へ侵攻していった。バルカン半島では、イスラムの襲撃をみて、セルビアやブルガリアが侵入してきた。異民族の侵入をうけて、統治制度も変更した。屯田兵制と軍管区制である。