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トルコ・ギリシャ史

7世紀のビザンツ帝国 イスラム教の成立

 7世紀、日本は飛鳥時代。このころ、中東ではイスラム教が成立した。イスラム勢力はビザンツ帝国へ侵攻していった。バルカン半島では、イスラムの襲撃をみて、セルビアやブルガリアが侵入してきた。異民族の侵入をうけて、統治制度も変更した。屯田兵制と軍管区制である。

イスラム教の成立

ウマイヤ朝の時代

 61年、シリア総督ムアーウィヤがカリフにつくと、その後カリフはウマイヤ家が世襲するようになった。ウマイヤ朝の始まりである。都は、メッカ(現在のサウジアラビア)からダマスカス(シリア)へ移った。

 ウマイヤ朝は、中央アジアのソクド地方やインド西部へ進出した。

 ウマイヤ朝は、ビザンツ帝国へも侵攻した。北アフリカへ侵攻するとともに、コンスタンチノーブル包囲を行った。ビザンツ帝国は、新兵器「ギリシャの火」でコンスタンチノーブル包囲を解いた。

正統カリフの時代

 31年、ムハンマドが亡くなると、選挙で指導者を選ぶようになった。この指導者をカリフという。また、選挙でカリフを選んでいた時代を正統カリフ時代という。

 正統カリフ時代から、大規模な征服活動(聖戦ジハード)が始まった。これにより、ササン朝ペルシャが滅亡した。イスラム教へ改宗するものを多くいたが、唐王朝の長安などへ亡命するものもいた。

 ビザンツ帝国も、イスラム勢力にシリアやエジプトを奪われた。

 61年、4代目カリフのアリーが暗殺されると、カリフの座をめぐり対立が生じた。この対立はムアーウィヤの勝利で終わった。

 この時、ムアーウィヤを支持したものはスンニ派と呼ばれ、ムアーウィヤを支持しなかったものがシーア派は呼ばれた。敗北したシーア派の多くはイランへ向った。シーア派は、イランの間ワーリー(イスラム教へ改宗した非アラブ人)と結びついた。

ムハンマドの時代

 10年、メッカ(アラビア)の商人であったムハンマドはアッラー(唯一神)から啓示を受けた。モーゼ、イエスに続く三番目の預言者となった。これがイスラム教の始まりである。

 当時のメッカは繁栄していた。一方で格差も拡大した。そのため、イスラム教はメッカの貧困層を中心に広まった。多神教を信仰していたメッカの大商人たちは、ムハンマドらを迫害した。22年、ムハンマドは、少数の信者を連れて、メディナ(アラビア)へ移住した。これをヒジュラ(聖遷)という。

 30年、ムハンマドはメッカを征服。多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラム教の正殿と定め、中にあった聖像を次々と破壊した。翌31年、ムハンマドは亡くなった。

 この頃、ビザンツ帝国はササン朝ペルシャとの戦闘が激化していた。一方で、スペインの拠点を西ゴート王国に奪われ、スペインから撤退した。

バルカン半島(北)に
異民族が侵入

 ビザンツ帝国が南からイスラム勢力の攻撃を受けるようになると、北(バルカン半島)でも異民族の侵入を受けるようになった。

ブルガリア(バルカン半島東部)

 アジア系騎馬民族のブルガリア人である。明治ブルガリアヨーグルトでもわかる通り牧畜で生活をしていた遊牧民族である。ブルガリア人は、バルカン半島東部(黒海側)に拠点を置いた。ウマイヤ朝(イスラム勢力)のコンスタンチノーブル包囲が終わると、ブルガリアとビザンツ帝国との和平が成立。ブルガリア王国が成立した。

セルビア(バルカン半島西部)

 同じ頃、バルカン半島西部(アドリア海側)には南スラブ人のセルビア人が侵入。セルビア王国が成立した。

アヴァール人(ハンガリー)

 アヴァール人は、中央アジア系の騎馬民族である。6世紀に、南ロシアからパンノニア平原へ移住した。パンノニア平原は、現在のハンガリーにあたる地域で、バルカン半島の北西にある。

 7世紀、アヴァール人は大帝国を建国。フランク王国やビザンツ帝国に攻撃を続けた。ビザンツ帝国は略奪行為を行わないようにアヴァール人へ貢納を行った。

 アヴァール人は、8世紀末にフランク王国のカール大帝の遠征によって急速に衰退した。その後、9世紀に侵入したアジア系騎馬民族マジャール人と同化する。

軍管区制と屯田兵制

 ビザンツ帝国は6世紀に地中海を統一した。7世紀に入るとゲルマン民族から領土を守る一方で、新興勢力であるイスラム勢力やスラヴ人との戦いも始まった。

 6世紀頃までのビザンツ帝国は、コロヌス(小作人)を使った大土地所有制度が一般的であった。

 7世紀に入ると屯田兵制が導入された。屯田兵制は、総督や皇帝が農民に土地を与える代わりに、農民は兵役の義務を負った。この制度によりコロヌス(小作人)が減り、自由農民が増えた。

 また、軍管区制(テマ制)が広まったのもこのころである。帝国をいくつかの軍管区に分け、その軍管区に総督(司令官)を派遣した。総督は、その軍管区の軍事権を持つとともに、司法、行政権があたえられた。この政策により、皇帝の権限が弱まった。

 このころから、公用語がイタリア語(ラテン語)からギリシャ語(コイネー)に代わった。これにより、東方正教会を信仰している国々はアルファベットではなくキリル文字を使用している。

 これにより、帝国の名前もギリシャ風の呼び名ビザンツ帝国と呼ばれるようになる。ビザンツ帝国の由来は、コンスタンチノーブルのギリシア時代の呼び名がびビザンティウムであることに由来している。20世紀初頭のドイツの3B政策もビザンティウムに由来している。

トルコ民族(突厥)は

 7世紀のトルコ民族の様子はどのようなものであったのだろうか。

 当時トルコ民族は、モンゴルを拠点にした東突厥と中央アジアを拠点とした西突厥に分かれていた。

 モンゴルの東突厥は、隋王朝の支配下が、唐王朝の建国を支援。再び独立した。しかし、唐王朝2代皇帝太宗が、東突厥へ侵攻。唐王朝の羈縻政策の下に置かれた。82年に独立。則天武后と和議。正式に独立した。8世紀半ば、同じトルコ系のウイグルによって滅亡した。

 一方、中央アジアの西突厥は、ササン朝ペルシアやビザンツ帝国との陸上交易で大いに栄えた。7世紀前半にはインドへ向う唐王朝の僧侶玄奘を歓待した。

 7世紀半ば、内乱や唐王朝の侵攻によって衰退した。そのあと中央アジアに台頭してきたのが同じトルコ系のキルギスである。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

「7世紀のビザンツ帝国 イスラム教の成立」への2件の返信

[…]  7世紀最大の出来事はイスラム教の成立である。それまで、中東はビザンツ帝国とササン朝ペルシアで分割されていた。6世紀、ビザンツ帝国はユスティアヌス帝の最盛期で、地中海の再統一を実現した。一方で、ササン朝ペルシアもホスロー1世の最盛期で、中央アジアのエフタルを滅ぼした時代である。しかし、7世紀にはいると、ササン朝ペルシアは滅亡。ビザンツ帝国も、穀倉地帯のシリア、エジプトや地中海の制海権をイスラム教徒へ奪われた。 […]

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