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日本史

7世紀の日本(飛鳥時代)大化の改新

7世紀、日本は飛鳥時代。聖徳太子が冠位十二階を定めた。その後、乙巳の変で有力豪族蘇我氏が滅亡。天皇家を中心とした国家が始まった。

天智天皇と持統天皇

女帝の時代

 天武天皇が亡くなると、后の持統天皇が即位した。このころ、唐王朝では則天武后が即位。東アジア全体で女帝の時代となった。

律令制の時代

 唐王朝の政治の仕組みを取り入れ、律令の作成を行った。これが完成したのは701年(8世紀)の大宝律令である。

 さらに7世紀末には、藤原京が造営された。

 このころから「日本」と呼ばれるようになる。

壬申の乱

 天智天皇の死後、後継者争いで天智天皇の息子(大友皇子)と弟(大海人皇子)が争う。(壬申の乱)。弟が勝利し、天武天皇が即位する。有力な豪族はこぞって、息子側についたため、多くの豪族が失脚した。その結果、天皇の地位が高まった。

天武天皇

唐・新羅連合軍に大敗

 朝鮮の親交国 百済の要請を受け、唐・新羅連合軍と戦い敗れた。(白村江の戦い)。その後、朝鮮は新羅が統一し三国時代が終了した。日本は、唐の影響を強く受けるようになる。一方で、福岡には水城(みずき)が築かれ、兵役の義務を受ける国民の一部が防人として派遣された。

公地公民制

 中大兄皇子らは、北魏で採用された均田制を日本に導入した。公地公民制である。公地公民制とは国民は政府から土地が支給され、代わりに納税と兵役の義務を負う。

乙巳の変

645年 皇太子の中大兄皇子(のちの天智天皇)と有力豪族の中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害。蘇我氏専制が終わった。中臣鎌足は、藤原の姓を賜り、藤原一族の祖となる。

聖徳太子

有力豪族 蘇我氏

 蘇我氏は、大和朝廷の有力豪族の一つである。渡来人(外国人技術者)との親交が深く、最初に仏教を受け入れた。

 5世紀に有力豪族物部氏を滅ぼした。推古天皇を即位させ、聖徳太子を摂政につけた。

遣隋使

 当時の日本外交の課題は、新羅に奪われた朝鮮半島の領地の奪還にあった。新羅包囲網として、当時の友好国の百済のほか、中国の新興国隋とも仲良くしたかった。中国を統一したばかりの隋に使いを送る。その返礼を迎えるため法隆寺を建てた。法隆寺は世界最古の木造建築物である。隋も高句麗遠征を計画していて日本と友好関係を築いておきたかった。聖徳太子の死後も、蘇我氏専制は続いた。中国への使いは、唐の時代に入っても引き続き行われた。しかし、唐が朝鮮のパートナーとして選んだのは日本の仮想敵国新羅であった。

官位十二階

 聖徳太子は、5世紀末に推古天皇の摂政(天皇の代わりに政治を行うもの)についた。

 聖徳太子は、魏の九品中正をもとにした役人の人事制度「官位十二階」を作った。それまでの日本の役人は世襲制であった。この制度の導入により実力を反映した人事が行えるようになった。

 聖徳太子は、中央集権体制を構築するため、十七条の憲法を制定した。

 

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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