概略
ここでは、中世後半の西アジアの歴史を見ていきます。時代としては10世紀後半の3カリフ時代から15世紀のオスマン帝国の成立までを見ていきます。
10世紀の西アジア
地方にイスラム王朝が乱立。アッバース朝のカリフの権威は西アジアのみに限られた。
エジプトのファーティマ朝やスペインの後ウマイヤ朝がカリフを名のるようになり、3カリフ時代になった。
一方、アッバース朝のカリフは、政治の実権をブワイフ朝の大アミールに譲り、宗教的象徴となっていた。
イランとトルコ民族
ブワイフ朝
ブワイフ朝は10世紀前半にイランに成立した穏健シーア派の王朝である。10世紀半ばにバグダードを占領。西アジアの政治の実権を握っていた。
マムルーク
話は少しさかのぼる。8世紀、ウマイヤ朝は中央アジアへ進出。8世紀半ば、アッバース朝はタラス河畔の戦いで唐王朝に合勝利。これにより、中央アジアを勢力圏に加えた。
9世紀に入ると、中央アジアのトルコ人が奴隷としてイスラム国内で売買されるようになる。彼らは軍人奴隷として働くようになった。トルコ人軍人奴隷はマムルークと呼ばれた。次第に、マムルークが軍事の中心になるようになると政治に大きな影響を及ぼすようになる。
セルジューク朝
11世紀前半、トゥグリル=ベクがセルジューク朝を建国。11世紀半ば、ブワイフ朝をバグダードから追放した。
アッバース朝のカリフは、同じスンニ派のトゥグリル=ベクを歓迎した。アッバース朝のカリフは、トゥグリル=ベクにスルタン(支配者)の称号を与えた。
セルジューク朝の最大の使命は、アッバース朝の権威の回復にあった。そのため、各地に学院(マドラサ)を建設した。ここでは、スンニ派の神学と法学が研究された。ニザーミヤ学院がその一例である。
セルジューク朝は、ビザンツ帝国領のアナトリア(現在のトルコ)へ侵攻した。ビザンツ皇帝は、ローマ教皇に援軍を要請。これが十字軍につながる。
カラ=ハン朝とカズナ朝
一方、中央アジアでは、10世紀半ばにトルコ系のカラ=ハン朝が成立。アフガニスタンのカズナ朝は、10世紀末、戦乱期のインドへ侵入した。
イル=ハン国
13世紀、中央アジアでモンゴル帝国が台頭。13世紀半ば、フラグがバグダードへ入城。アッバース朝カリフを処刑。アッバース朝は滅亡した。フラグは、イル=ハン国を建国。西アジアは、北のイル=ハン国と南のマムルーク朝で戦闘が繰り返された。
カザン=ハンの時代にイスラム教に改宗。イスラム教に改宗した。
エジプト
ファーティマ朝
10世紀、エジプトは急進シーア派のファーティマ朝の時代。アッバース朝カリフを否定し、自らカリフを名のった。都カイロを建設し繫栄した。この頃に建設されたのがアズハル学院である。
アイユーブ朝
12世紀半ば、クルド人のサラディンがファーティマ朝を滅亡。アイユーブ朝を成立させた。アイユーブ朝はスンニ派の王朝である。スンニ派の回復のため、アズハル学院を中心としたスンニ派教育がすすめられた。
12世紀後半、十字軍からエルサレムを奪回。第3回十字軍も撃退した。
マムルーク朝
アイユーブ朝は、十字軍の戦いのため大量のマムルーク(トルコ人軍人奴隷)を購入。13世紀半ば、そのマムルークがクーデターを実施。アイユーブ朝が滅亡。マムルーク朝が成立した。
おなじころ、バグダードを制圧したフラグを撃退。シリアや聖地のヒジャーズ地方(メッカ・メディナ)を征服。カイロでは、アッバース朝のカリフを回復。
エジプトの経済
12世紀ごろのアイユーブ時代から豊作に恵まれた。小麦だけでなくサトウキビなどの商品作物の栽培も始まり、農業輸出国として繁栄した。
一方で、東南アジアから香辛料が大量に入ってきた。エジプトは、エジプト産砂糖や東南アジア産香辛料を東方貿易でヨーロッパ諸国へ販売。東方貿易で大いに栄えた。この交易の中心となったがエジプトのカーリミー商人である。
スペインとモロッコ
後ウマイヤ朝
8世紀半ばのスペイン成立した後ウマイヤ朝は、10世紀の3カリフ時代に入るとカリフを名のるようになった。
ベルベル人とモロッコ
モロッコは、北アフリカ西部の国である。ジブラルタル海峡でスペインと向かい合っている。首都はマラケシュで、先住民はベルベル人である。
ムラービト朝
10世紀半ばに入ると、モロッコで熱狂的な宗教運動が進んだ。急速にイスラム化が進んだ。この頃に成立したのがムラービト朝である。
ムラービト朝は、西部スーダンの黒人国家ガーナ王国を征服。アフリカ内陸部のイスラム化を進めた。
また、レコンキスタをうけて、スペインへ援軍を送るも失敗に終わった。
ムワッヒド朝
12世紀前半、モロッコにムワッヒド王朝が成立。レコンキスタを受けて、スペインへ侵攻するも失敗を繰り返した。
ナスル朝
12世紀前半、スペインのグラナダにナスル朝が成立。グラナダにアルハンブラ宮殿を建設した。しかし、15世紀末、ナスル朝は滅亡。イスラム勢力はエジプトから撤退した。
経済
イクター制
アッバース朝は、地租(ハラージュ)と人頭税(シズヤ)による税収と貨幣鋳造による収入で官僚や軍隊に給料を払っていた。
しかし、9世紀半ばに地方王朝が独立すると国家財政はひっ迫した。
10世紀半ばのブワイフ朝は、給料の代わりにある地域の徴税権を渡すようになった。徴税権とは、本来国庫に入るべき税金を給料や地方の役人の給料に使っていいという権利である。税収面では封建制に近い形になった。このような給料制度をイクター性といった。
この制度は、その後のイスラム王朝で主流の給料制度となった。
カーリミー商人
スルタンやイクター保有者(軍人)は、商人を保護した。
イスラーム教圏の商人はムスリム商人とよばれた。ムスリム商人は中央アジア(「オアシスの道」)などでキャラバンによる陸上交易を行うもののいれば、インド洋交易(「海の道」)を行うものもいた。主な商品は東南アジア産香辛料や奴隷などであった。また、ムスリム商人は交易を行う一方でイスラーム教の布教活動も担った。