中世の東ヨーロッパ

概要

 ここでは、中世の東ヨーロッパを見ていきます。時代的には、4世紀から15世紀までを見ていきます。ローマ帝国の分裂からビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡までの時代を見ていきます。

東ヨーロッパと西ヨーロッパ

西ヨーロッパ東ヨーロッパ
西岸海洋性気候
地中海性気候
気候大陸性気候
主にローマ=カトリック中世の宗教主に東方正教会
アメリカ陣営現代ソ連陣営

 大陸性気候は、乾燥して寒冷した気候である。遊牧に適した草原地帯が広がる。

古代の東ヨーロッパ

 紀元前2世紀のポエニ戦争のころ、ギリシャは共和制ローマの属州になった。2世紀の五賢帝の時代には、ドナウ川のあたりまでローマの領土は拡大した。4世紀になると、コンスタンティヌス帝がコンスタンチノーブルへ遷都。ヨーロッパの中心はローマから東ヨーロッパになった。そして、4世紀末ローマ帝国は東西に分裂した。

 5世紀、分裂後も東ローマ帝国は繁栄をつづけた。西ローマ帝国とは異なり商業貨幣経済の繁栄は続いた。この繁栄は、ギリシャ正教会(キリスト教)文化とギリシャ古代文化を融合させた。都のコンスタンチノーブルは、貿易港としてヨーロッパ最大の都市となった。一方で、ローマ皇帝は、皇帝専制体制を維持するとともに、ギリシャ正教会(コンスタンチノーブル教会)のトップ(教皇)の地位も担った。

 6世紀前半、ユスティアヌス帝が即位。北アフリカのヴァンダル王国やイタリアの東ゴード王国を滅ぼし、地中海帝国を復活させた。ローマ法大全を編纂。ハギア=ソフィア聖堂を建立。中国の養蚕技術を導入、絹織物産業を信仰させた。

ビザンツ帝国

 6世紀後半から、東ローマ帝国は衰退期に入る。イタリアをランゴバルド王国やフランク王国に奪われるようになると東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになる。また、ササン朝イランとの長期にわたる戦いから国は疲弊していた。

 7世紀にイスラム教が成立すると、穀倉地帯のシリア・エジプトが奪われた。同じ頃、バルカン半島には東欧のスラブ人やアジア系騎馬民族のブルガール人が侵入。バルカン半島の大部分を喪失した。

 10世紀半ばにブワイフ朝がバグダードに入城するとビザンツ帝国は勢力を回復した。これにより、異民族を次々撃退した。

 しかし、11世紀後半、セルジューク朝が侵入。11世紀末にローマ教皇に救援を求める。これにより編成されたのが十字軍である。

 13世紀前半、第4回十字軍によってコンスタンチノーブルを奪われる。これにより、コンスタンチノーブルにラテン帝国が成立した。その後、ビザンツ帝国はコンスタンチノーブルを奪還して復活した。

 15世紀半ば、オスマン帝国によってビザンツ帝国は滅亡する。

社会と文化

軍管区制(テマ制)

 軍管区制(テマ制)とは、司令官に軍事と行政権を与える制度である。一方で、司令官は自分の領土を異民族から守る義務を負った。

 初期の東ローマ帝国では、4世紀に始まったコロヌスによる大土地所有制度が主力であった。

 7世紀に入り、異民族の侵攻が激しくなった。これによりビザンツ帝国が軍管区制(テマ制)を導入した。

 司令官は、兵士を集まるために屯田制を導入した。屯田制とは、農民に土地を与える代わりに兵役に義務を課す制度である。これにより、多くのコロヌスが自由農民になった。

 軍管区制は、10世紀に完成した。

 しかし、11世紀に入ると貴族による農奴使った大土地所有制度が拡大した。11世紀末には、ビザンツ帝国はプロノイア制を導入した。これは、貴族に大土地所有を認める代わりに軍役の義務を課す制度であった。

ビザンツ帝国の文化

 ローマ帝国の公用語はラテン語である。東ローマ帝国でも引き続きラテン語を使用した。しかし、7世紀にイタリアから撤退するとギリシャ化が進み、公用語もギリシャ語に変わった。

 ドーム型の屋根とモザイク壁画が特色のビザンツ様式の教会がたくさん作られた。6世紀に建立されたハギア=ソフィア聖堂はその代表例である。

スラブ人とロシア

スラブ人とは

 スラブ人は、カルパティア山脈を原住とする民族で、6世紀に東欧北部に拡大した。

東スラブ人とロシア

 東スラブ人は、ロシア人やウクライナ人で、ギリシャ正教会を信仰し、ビザンツ文化を取り入れた。そのため、ロシア語などはギリシャ語と同じキリル文字を使用している。

 ロシアは、9世紀にノルマン人が侵入。東スラブの人々は農ルマン人の支配をうけるようになる。ノルマン人は北方のバルト海沿岸にノヴゴロド国を建国。その後、黒海沿岸にキエフ公国を建国した。その後、ロシアのノルマン人と東スラブ人の同化(スラブ化)が進む。

 10世紀末、キエフ公国のウラディミル1世のときに全盛期を打迎える。ウラディミル1世は、隣国のビザンツ帝国と同盟関係を進めた。ギリシャ正教会に改宗し、ビザンツ帝国風の専制君主制を導入した。

 その後、農民の農奴化と貴族の大土地所有が進む。これにより、専制君主制がくずれ、諸侯の権力が拡大した。

 13世紀、モンゴル帝国のバトゥが南ロシアにキプチャクハン国を建国。分裂状態のロシアを支配するようになった。

 15世紀後半、ロシア北部にモスクワ大公国を建国。イヴァン3世は、ロシア北東部を統一。モンゴルの支配を脱した。15世紀半ばに滅亡したビザンツ皇帝の後継者として、ツァーリ(皇帝)称号を用いた。また、農奴制を強化した。

 16世紀、イヴァン4世は、中央集権化を進めた。

南スラブとセルビア

 南スラブ人は、主にバルカン半島で生活している。その中心は、セルビア人である。セルビアは、ビザンツ帝国に服属。ギリシャ正教会に改宗した。12世紀にビザンツ帝国から独立。14世紀前半に最盛期を迎える。しかし、14世紀末にオスマン帝国の支配下に入る。

 南スラブ人には、クロアチア人やスロヴェニア人のようにローマ=カトリックに改宗した民族もいた。

西スラブ人とポーランド

 西スラヴ人は、ローマ=カトリックに改宗した。主な民族は、ポーランド人とチェック人である。

 ポーランドは、10世紀に建国。14世紀前半に繁栄。14世紀にはドイツ騎士団に対抗するため、リトアニアと合併。ヤゲヴォ朝に入る。15世紀に最盛期を迎える。

 チェック人は、10世紀にベーメン(ボヘミア)を統一。11世紀に神聖ローマ帝国に編入された。

 東欧の主な民族は、スラブ人以外にアジア系騎馬民族があった。

 ブルガール人は、7世紀にバルカン半島に侵入。その後、スラブ人との混血が進む。ギリシャ正教会に改宗。ビザンツ帝国に併合された。しかし、12世紀に再び独立。14世紀にオスマン帝国に併合された。

 マジャール人は、10世紀末にハンガリー王国を建国。ローマカトリックを受け入れた。15世紀に最盛期を迎える。16世紀(第一次ウィーン包囲)のときにオスマン帝国の支配下に入った。