中世前半の西ヨーロッパ

概要

 ここでは、中世前半の西ヨーロッパを見ていきます。時代的には4世紀から11世紀の歴史を見ていきます。ローマ帝国が分裂してから、ローマ=カトリックの絶頂期である十字軍の時代を見ていきます。

 この時代は、8世紀末のカールの戴冠で前半と後半に分かれていきます。

 ここでの注目ポイントは3点です。1つ目は、イギリスやフランスなどの国名が登場するのはこの時代からです。現在あるヨーロッパ諸国がどのように成立したかを見ていきます。2つ目は、キリスト教である。この時代、キリスト教は重要な意味を持っていた。キリスト教が中世社会にどのような影響を持っていたかを見ていきます。3つ目は、経済です。中世前半の人々はどのような生活をしていたかを見ていきます。

古代の西ヨーロッパ

 2世紀、ローマ帝国は全盛期を迎えた。しかし、ローマ帝国は3世紀入ると衰退。4世紀初頭にはローマからコンスタンチノーブルに遷都。西ヨーロッパは1地方都市になった。

地理

 西ヨーロッパの気候は、アルプス山脈の北と南で分かれる。

 アルプス山脈の北は、平坦な丘陵地や平野が多い。また、セーヌ川、ライン川、エルベ川などの川が多く、古くから川を使った物流が発展した。気候は、暖流(北大西洋海流)の影響で、高緯度のわりに寒くならない。そのため、夏涼しく、冬温かい気候になっている。この気候を西岸海洋性気候という。

 一方は、アルプう山脈の南は、イタリア・スペインなどの漢告知が多い。山がちで川が急流。夏は乾燥するため、快適に過ごせる。そのため、現在でも多くの保養地がある。しかし、平地が少なく、乾燥するため、あまり穀物が取れない。オリーブやぶどう(ワイン)など果樹栽培が主な産業である。この気候を地中海性気候という。

 語族では、インド=ヨーロッパ語族に属する。南欧では、スペイン人・ギリシャ人・ラテン人(イタリア人)が。北欧ではケルト人とゲルマン人が生活している。

 また、アジア系の騎馬民族もヨーロッパに侵入した。フン人やマジャール人はその一例である。彼らは、アジア系に多いウラル語族に属する。

ゲルマン民族国家の戦乱期

 アルプスの北方には、ケルト人ゲルマン人が生活していた。ケルト人は西方に、ゲルマン人は東方に拠点を築いた。

 紀元前後に入ると、ケルト人にエリアにラテン人(ローマ帝国)やゲルマン人が侵入するようになった。カエサルのガリア遠征はその一つである。これにより、大部分のケルト人はローマ帝国の支配下に入り、紀元前後にはヨーロッパは、ラテン人(ローマ帝国)とゲルマン人に完全に分割された。この時に国境になったのが、ライン川とドナウ川、そして黒海である。

 ゲルマン民族は、数十の部族に分かれていた。それぞれの部族が1人の王と数人の首長が治めていた。階級社会もすでに存在し、貴族、平民、奴隷が存在した。ゲルマン民族はギリシャと同じ直接民主制をとって、成年男子の貴族と平民全員からなる民会で重要な決定が行われた。

 ゲルマン人の人口が多くなると、高地不足に悩まされた。そのため、移民としてローマ帝国へ侵入した。彼らは、下級官吏や傭兵、コロヌス(農奴)をとして生活した。小部族も次第に統合されいくつかの大部族に集約された。ゴート人やフランク人はこの大部族の名称である。

 4世紀後半、アジア系騎馬民族のフン人が東欧のゲルマン人エリアに侵入。東ゴート人を征服した。西ゴート人は、ドナウ川をわたりバルカン半島(ローマ帝国領)へ侵入。これがゲルマン民族の大移動の始まりである。

 5世紀に入ると、ゲルマン民族国家が次々建国した。西ゴード人は西ローマ帝国からローマを奪い、スペインに建国した。ヴァンダル人は、先にスペインを占領したが西ゴード人にその地を追われた。その後、かつてのフェニキア人の拠点である北アフリカのチュニジア(カルタゴ)に国家を建国した。そのほかフランス(ガリア)では、北部をフランク人が、中部をブルグンド人が占領した。アングロ=サクソン人は、ブリテン島(イギリス)にわたり、ヘプターキーを建国した。

 5世紀前半、アジア系騎馬民族のフン人はアッティラ王の全盛期を迎える。パンノニア平原(現在のハンガリー)に大帝国を建国した。

 5世紀半ば、ゲルマン民族と西ローマ帝国連合軍がフン族と戦い勝利した。(カタラウヌムの戦い)これにより、フランク人は王国を建国。この時、西ローマ帝国軍にいたのがオドアケルである。フン人の帝国はその後アッティラ王の死で崩壊した。これにより、東ゴート王国が誕生した。

 5世紀のイタリアを見ていこう。4世紀末のローマ帝国の分裂により、ローマは西ローマ帝国が誕生した。しかし、5世紀初頭に西ゴード族が侵入。東海岸のラヴェンナに遷都した。5世紀半ばに西ローマ帝国は、フン族に勝利した。しかし、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼした。しかし、5世紀末、フン族滅亡で誕生した東ゴート王国によってオドアケル王国は滅亡した。

 6世紀に入ると、東ローマ帝国のユスティアヌス帝が東ローマ帝国を滅ぼす。しかし、6世紀半ば、東ローマ帝国からランゴバルド王国が独立。

 一方、ケルト人は、アイルランドやスコットランド、ブルターニュ半島(北フランス)で細々と生活していた。

フランク王国

 ここから、フランク王国の歴史を見ていきましょう。フランク王国は、フランス(ガリア)北部に拠点を置いていた。

 5世紀半ばのカタラウヌムの戦いに勝利し、5世後半に王国になった。初代国王は、メロヴィング家クローヴィスである。

 ここで、キリスト教の復習。ローマ帝国では、4世紀初頭にキリスト教を公認。このとき、アタナシウス派を正統として、アリウス派を異端としてローマ帝国から追放した。4世紀末、キリスト教を国教にした。そのため、ローマ教会はアタナシウスはである。

 一方、ゲルマン人はどのような信仰をしていたのであろうか。ローマを追放されたアリウス派の人々はゲルマン民族に対して布教活動をした。そのため、大半のゲルマン民族はアリウス派を信仰した。しかし、この布教は南部に限られていて、バルカン半島から遠く離れた北フランスのフランク族はアリウス派を知らなかった。

 6世紀初頭、フランク王グローヴィスはキリスト教アタナシウス派に改宗した。これにより、フランク族はラテン人やローマ教会の支援を受けるようなった。

 6世紀半ば、中部フランスのブルグンド王国を征服した。その名残でこの辺りは現在ブルゴーニュ地方と呼ばれる。

 8世紀、後継者争いで王家であるメロヴィング家は衰退した。フランク王国は貴族が中心に政治が行われるようになった。その貴族のトップが宮宰である。

 このような中、ヨーロッパは新たな危機を迎える。7世紀に登場したイスラム勢力の侵入である。8世紀初頭、スペインの西ゴード王国がイスラム勢力によって滅亡した。8世紀前半、イスラム勢力はフランス(ガリア)まで侵入した。

 8世紀前半、宮宰カール=マルテルは、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラム勢力に勝利。その後、8世紀半ばにアッバース革命がおきイスラム勢力の侵攻は止まった。

 8世紀半ば、ピピンはメロヴィング朝を廃し、カロリング朝を開いた。さらに、イタリアのランゴバルド王国からラヴェンナを奪う。この地をローマ教皇に寄進した(ピピンの寄進)。

ローマ帝国崩壊後のキリスト教

 次は、8世紀までのキリスト教の歴史をふりかえる。

 1世紀に成立したキリスト教は、ペテロやパウロなどの伝道師によってローマ帝国中に広まった。首都ローマも例外ではない。しかし、時の皇帝ネロは、キリスト教を弾圧した。ペテロやパウロはこの時に処刑された。その地が、現在のローマ教会である。ローマ教皇とは、ペテロの後継者を意味する。

 4世紀初頭、ミラノ勅令でキリスト教は公認。4世紀末にはキリスト教は国教化された。これにより、中世の人々はキリスト教を重要視した。

 4世紀末のキリスト教はピラミッド構造をしていた。その中心となったのが、五本山(ローマ、コンスタンチノーブル、アンティオキア、イェルサレム、アレキサンドリア<カイロ>)である。その中でかつて都のあったローマと当時の都のあるコンスタンチノーブルが有力であった。

 5世紀に入り、西ローマ帝国が滅亡するとローマ教会とコンスタンチノーブル教会の対立が激しくなった。

 6世紀に入ると、東ローマ皇帝のユスティアヌス帝ががイタリへ侵攻。このころから修道院運動が起こる。また、6世紀sh当人はフランク王グローヴィスが改修。6世紀末に教皇になったグレゴリウス1世の時代からゲルマン人への布教を本格化させた。

 この頃から、ローマ教会のトップはローマ教皇と名乗るようになった。彼らは、ペテロの後継者と自認していた。

 8世紀前半、東西教会をさらに分裂させる事件が起きた。レオン3世の聖像禁止令である。レオン3世は、ビザンツ帝国のトップであるとともにコンスタンチノーブル教会のトップでもあった。聖像とは、絵画や彫刻のことである。キリスト教などの一神教では神以外ものを崇拝することは禁止されている。それは、旧約聖書の「モーセの十戒」にもある。そこには聖像なども含まれている。イスラム教はこれを忠実に守っている。レオン3世は、イスラムとの戦いに敗れた理由がこれにあると考え、聖像禁止令を発した。しかし、ローマ教会は聖像禁止することができなかった。当時、ローマ教会は文字のわからないゲルマン民族に対して紙芝居などで布教を行っていた。

 ローマ教会は、ビザンツ帝国と戦えるスポンサーを欲していた。そこに現れたのが、イスラム勢力を撃退した宮宰カール=マルテルであった。ローマ教皇は、カロリング朝を容認した。その見返りに、国王ピピンからラヴェンナ地方を受け取った。(ピピンの寄進)。ローマ教皇はローマからラヴェンナまでの中部イタリアにを教皇領を獲得した。

カールの戴冠

 ピピンの子のカール大帝の時代に入ると、フランク王国が全盛期に入る。イタリアのランゴバルド王国、北東のザクセン族を征服。ヨーロッパの大半を統一した。

 カール大帝の統治は地方分権的であった。全国を州に分け、地方の有力者に統治を任せた。これの地方長官は伯と呼ばれた。また、伯を監視する巡察使を設置した。

 8世紀末、カール大帝はアジア系騎馬民族アヴァール人を撃退。800年のクリスマスの日、キリスト生誕800年を祝うイベントが行われた。その中で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝の戴冠式を実施。カール大帝をローマ皇帝と認めた。

 カールの戴冠によって、ローマ教会はビザンツ帝国との決別を表明した。また、この式典は古代ローマ、キリスト教文化とゲルマン人文化の融合した西ヨーロッパの中世社会の成立を意味した。

 11世紀半ば、ローマ教会とコンスタンチノーブル教会は相互破門。東西教会は完全に分裂した。

 中世の地中海世界は、イスラム世界とローマカトリックを中心とした西ヨーロッパ世界、ギリシャ正教会を中心とした東ヨーロッパ世界の3つに分かれた。

ドイツ・フランス・北イタリア

 フランク王国の全盛は長くは続かなかった。9世紀初頭、カール大帝が亡くなった。その後、後継者争いが発生。ヴェルダン条約とメルセン条約によって、フランク王国は分裂した。

 東フランク(ドイツ)、10世紀初頭にカロリング家が断絶。ザクセン家のオットー1世、アジア系騎馬民族のマジャール人(ハンガリー人)を撃退。10世紀半ば、ローマ教皇から戴冠を受け、ローマ皇帝になった。これが神聖ローマ帝国の始まりである。

 神聖ローマ皇帝は、本国をおろそかにし、イタリア侵攻(イタリア政策)を繰り返した。これにより、皇帝は貴族の信頼を失っていった。

  西フランク(フランス)、10世紀末にカロリング家が断絶。ノルマン退治で退治で活躍したパリ伯のユーグカペーカペー朝を開いた。しかし、当時のフランスは国王よりも多くの領地を持つ伯(諸侯)が多く、王権はそれほど大きくなかった。

 北イタリアも、9世紀後半にカロリング家が断絶。神聖ローマ帝国のイタリア政策やイスラーム人の侵入で争いが絶えなかった。それでも中部イタリアの教皇領は健在。北イタリアでは。cジェノヴァ、ヴェネツィアなどの都市が独立した。

外部勢力の侵入

 8世紀(カロリング朝の成立)から10世紀(神聖ローマ帝国の成立)にかけて、外部勢力の侵入が続いた。東方からはスラブ人やアジア系騎馬民族(8世紀のアヴァール人、10世紀のマジャール人)が侵入。また、イスラム勢力も南フランスや南イタリアへ侵攻した。

 ノルマン人が登場するのもこの時代である。8世紀後半からノルマン人が侵入するようになった。彼らは交易をする一方で海賊行為も行った。彼らは北海から川を使って内陸部まで侵攻した。

 ノルマン人は、10世紀初頭に北フランスにノルマンディー公国を建国。さらに、12世紀前半には南イタリアのイスラム勢力を撃退。両シチリア王国を建国した。

 8世紀のイギリスは、イングランドではアングロ=サクソン人が七王国を建国。一方、スコットランド、ウェールズ、アイルランドではケルト人国家が成立していた。イングランドもノルマン人の侵入に苦しんだ。9世紀末、アングロ=サクソン人のアルフレッド大王がノルマン人を撃退。11世紀初頭、デーン人のクヌートにより征服される。その後、アングロ=サクソン人国家が復活する。11世紀半ば、北フランスのノルマンディ公国のノルマンディ公ウィリアムがイングランドを占領(ノルマン=コンクェスト)、ウィリアム1世として、イングランド国王になった。(ノルマン朝)

 ノルマン人は、ロシアへも侵入した。バルト海沿岸にノヴゴロド国、黒海沿岸にキエフ公国を建国した。

 一方、北欧では11世紀初頭にクヌート王国を建国したデンマークのほか、スウェーデン・ノルウェーが建国。彼らがローマ教会を信仰するようになると北欧も西ヨーロッパ社会に組み込まれた。

(社会・経済)封建社会

 8世紀から10世紀にかけての第二次民族大移動は西ヨーロッパ社会に大きな打撃を与えた。商業と都市は衰退。自給自足経済が浸透。土地や農産物が貨幣の代わりになった。

 外部勢力の侵入で商業が衰退する一方で、外部の盗賊から身を守ることも重要になった。これで成立したのが封建的主従関係と荘園制である。この2つからなる社会を封建社会という。

 封建的主従関係とは、主君が家臣に領地(封土)を保護する代わりに、家臣は主君に誓って軍事的奉仕の義務を負う。西ヨーロッパの封建的主従関係は、双務的契約が特徴である。主君が契約違反をすれば、家臣は服従を拒否する権利をがあった。また、一人で複数の主君に使えることもあった。

 封建的主従関係は、ローマ帝国の恩貸地制度とゲルマン社会の従士制を期限にしている。恩貸地制度とは、土地の所有者が有力者に献上してその保護に入った後で、改めて有力者から土地を借りる制度である。従士制とは、貴族や自由民の子弟が、ほかの有力者に忠誠を誓って楚の従者になる慣習のことである。多くの騎士を従えた大諸侯は国王に並ぶ権力を持った。

 では、荘園制とは、なんだろうか。これは地主と小作人の関係である。封建的主従関係を結ぶ有力者たちは領地をもち、農民を支配する領主である。領主が持つ領地は荘園という。農民は農奴と呼ばれた。農奴は移動の自由がない。結婚税や死亡税を領主に納めないと、結婚や相続が認められなかった。領主には、貢納と賦役の義務を負った。貢納は自分の保有地の生産物の一部を領主に納める義務。賦役は、領主直営地を耕作する義務。荘園には手工業者も住み、自給自足的な現物経済になっていた。

 農奴は、帝政ローマ末期のコロヌスや没落したゲルマンの自由民の子孫であった。領主は、国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりする権利を持った。これを不輸不入権(インムニテート)という。また、領主は国の代わりに農奴を裁く権利をを持った。これを領主裁判権という。領主は農民と荘園を自由に支配することができた。

 この封建社会は10世紀から11世紀に成立した。

カノッサの屈辱

 最後に、9世紀から11世紀のローマ=カトリックの歴史を見ていきます。

 8世紀末のカールの戴冠以降、西ヨーロッパのキリスト教はローマ=カトリック教会を頂点としたピラミッド構造の階層制組織が作られた。大司教、司教、司祭、修道院長などの役職があるのがローマカトリックの特徴である。

 経済面では、大司教や修道院長など高位の聖職者は国王や貴族から寄進された荘園を持つ領主になった。また、地方の教会では農民から十分の一税をとった。

 高位の聖職者が諸侯と並ぶ支配階級になると、皇帝や国王などの世俗権力はその地位を狙うようになった。そのため、聖職売買が行われるようになった。

 10世紀になると、この動きに反発する勢力が登場した。フランス中東部(ブルゴーニュ)のクリュニー修道院である。11世紀後半にクリュニー修道院のグレゴリウス7世がローマ教皇になると、大改革が行われた。聖職の売買や聖職者の妻帯を禁止した。また、聖職者の任命権(聖職叙任権)を聖俗勢力(国王など)から教会に取り戻し教皇権を強化した。

 このグレゴリウス7世の改革に反発したのが、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)ハインリヒ4世である。皇帝は、教皇の改革を無視した。そのため、教皇は皇帝を破門した。ドイツ諸侯は教皇側につき、皇帝を廃位した。元皇帝は、教皇に謝罪し、許された。この事件をカノッサの屈辱という。

 聖職叙任権闘争は、12世紀初頭のヴォルムス協約で終わった。そして、12世紀末に即位した教皇インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎える。