(前史)19世紀後半のヨーロッパ
朝鮮戦争
(前史)中華人民共和国の成立
48年、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立。
49年、中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言。
朝鮮戦争
50年6月、北朝鮮が韓国へ侵攻。朝鮮戦争が勃発。
国連安保理は、武力制裁を決議。アメリカを中心とした国連軍が韓国を支援した。
50年9月、国連軍が仁川に上陸。中国の国境付近まで侵攻した。今度は、中国の義勇軍が北朝鮮に援軍。
53年7月、38度線付近で停戦した。
日本の独立
アメリカでは、52年大統領選でアイゼンハワー元将軍が勝利した。アイゼンハワー元将軍は、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線で活躍。共和党で出馬し、反共産主義で当選した。
アイゼンハワー大統領は、「巻き返し政策」を進めた。
51年、日本はサンフランシスコ講和会議で独立を回復。しかし、ソ連などの東側諸国は不参加であった。この会議で、日本は朝鮮、台湾、南樺太と千島列島を正式に放棄した。ただし、この千島列島には北方領土は含まれていないとされている。
この時、日本はアメリカと日米安全保障条約(日米安保)を締結。アメリカ軍の駐留を認めた。
また、沖縄はアメリカの統治が続いた。
軍事同盟
アメリカは、ソ連の侵攻とアジアの共産化を防ぐためにアジア各国と軍事同盟を締結した。
- フィリピン軍事援助条約 51年に締結
- 日米安全保障条約 51年に締結
- ANZUS大西洋安全保障条約、51年にオーストラリア、ニュージーランドと締結。
- SEATO東南アジア条約機構 54年に東南アジア諸国と締結。
- NETOバグダード条約機構 55年に中東諸国と締結。
核兵器
40年代から50年代にかけて核兵器の開発も進んだ。
45年8月、アメリカ、広島・長崎に原爆を投下。
49年、ソ連が原爆の製造に成功
52年、イギリスが原爆の製造に成功
52年、アメリカが水爆の製造に成功
54年、日本の漁船がアメリカの水爆実験に巻き込まれる。アインシュタイン氏らを中心に核兵器開発に反対する運動が起こる。
アメリカ
アイゼンハワーと赤狩り
47年3月、トルーマン大統領はトルーマン=ドクトリンでソ連への対決姿勢を表明。国家安全保障法を制定。国家安全保障会議や国防総省、CIAが設置された。
50年、朝鮮戦争が勃発。この頃から、「赤狩り」が始まる。「赤狩り」とは、左翼運動や共産主義者を攻撃する運動である。その中心がマッカーシーであった。
52年大統領選、赤狩りの影響で政権交代。共和党のアイゼンハワー氏で反共産主義を掲げて勝利した。
アイゼンハワー大統領は、朝鮮戦争の休戦協定を実現。ソ連との緊張緩和を進めた。さらに、東南アジアや中東で反共の軍事同盟を締結した。
軍産複合体
50年代に入ると、事務職(ホワイトカラー)が工場労働者(ブルーカラー)を上回るようになる。
20年代の大量生産・大量消費の動向が復活した。
冷戦が続いていたため、平時でも巨額な軍事費を支出するようになった。そのため、軍事関連の産業が活性化。軍部と軍需産業の癒着が進んだ。
公民権運動のはじまり
54年、アメリカ連邦裁判所は、公立学校での人種隔離を違憲という判決を出した。
これにより、南部での黒人差別制度廃止を求める運動が活発化した。これを公民権運動という。
ヨーロッパと日本の経済復興
ヨーロッパ
ヨーロッパでは、地域統合の動きが進んだ。その中心はフランスと西ドイツであった。その目的は、アメリカと対等に話せる経済力を持つことにあった。
- ECSC ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体 50年に成立
- EEC ヨーロッパ経済共同体 52年に成立
- EURATOM ヨーロッパ原子力共同体 52年に成立
- EEC ヨーロッパ経済共同体 58年に成立
- EC ヨーロッパ共同体 67年に成立
西ドイツ
49年5月に建国。キリスト教民主同盟のアデナウアー氏が首相になる。
54年のパリ協定で主権を回復。
経済成長と社会政策の両立で「経済の奇跡」といわれるほどの経済成長を果たした。
イギリス
ヨーロッパの経済統合には反発していた。
58年、西ドイツとフランスがEECを結成すると、60年、これに対抗してEFTA結成した。
しかし、EFTAは失敗。60年代にEECへの加盟を検討。しかし、フランスのド=ゴール大統領の反対で実現しなかった。
70年代、ド=ゴール大統領が退陣。イギリスはECに加盟した。拡大EC。
フランス
50年代、ベトナムの独立を承認。その後、北アフリカのアルジェリアで独立運動が起こる。この対応で、第四共和政政府は国民の信頼を失う。
60年、ド=ゴール大統領によって第五共和制が始まった。機械中心の第四共和政から、大統領の権限を強化した第五共和制に変わった。
ド=ゴールは、アルジェリアの独立を承認。核兵器を保有。64年に中華人民共和国を承認した。NATOへの軍事協力を拒否した。
日本
50年の朝鮮戦争の特需で経済が復興。
51年、サンフランシスコ条約で独立を回復。日米安全保障条約を締結。
55年、自由民主党の成立で開発独裁が成立。
56年、ソ連と国交を回復。国際連合に加入した。
60年、安保闘争。日米安全保障条約の改定で大規模デモが起こる。
65年、日韓基本条約で、韓国と国交回復。
東欧とソ連
フルシチョフ書記長のスターリン批判
53年、スターリン死去。外交政策が見直され、ユーゴスラヴィアと和解。西ドイツとの国交を回復。
56年2月、共産党大会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判。経済では自由化。外交では西側陣営と平和共存を掲げた。コミンフォルムを解散した。この政策転換は「雪解け」と呼ばれた。
東欧の自由化運動
56年のソ連の政策転換は、東欧諸国に大きな影響を与えた。これにより、東欧諸国で自由化の動きが進んだ。
ポーランドでは、56年6月、ボスナニで民主化要求デモ。民主と軍が衝突。ポーランド共産党は、指導者を変えて、経済の自由化を進めた。
ハンガリーでは、56年10月、ソ連から離脱を求める大衆運動が全国的に展開。ソ連は軍事介入して鎮圧。ハンガリーの首相は処刑された。
東ドイツでは、50年代末から農業の集団化を進める。この頃から東ベルリンから西ベルリンへの移住が進んだ。そのため、東ドイツ政府は61年にベルリンの壁を築いた。
強いソ連
フルシチョフ第一書記は、経済改革を実行。大陸間弾道ミサイルの開発、人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げでアメリカに対して軍事的優位性を示した。
59年、フルシチョフ第一書記は、アイゼンハワー大統領と会談。しかし、アメリカの偵察機撃墜事件をきっかけに米ソ関係は悪化。
60年代のキューバ危機に向かう。