第二次世界大戦後の世界 1940年代後半

(前史)19世紀後半のヨーロッパ

国際連合

大西洋憲章と国際連合

 41年の大西洋憲章で、国際連盟にかかわる新しい国際機関の設置が提案された。

 43年11月、米英ソで初の首脳会談(ヤルタ会談)

 44年8月~11月、ワシントンで米英ソ中で会談。国際連合憲章の草案が決まる。

 45年2月、米英ソでヤルタ会談。

 45年4月~6月、連合国50か国が参加したサンフランシスコ会議。国際連合憲章が採択された。ちなみにドイツが降伏したのは45年5月である。

 45年8月、日本が降伏。第二次世界大戦が終結した。

 45年10月、国際連合が正式発足。本部はニューヨークに置かれた。

 48年10月の第3回国産連合の総会では、世界人権宣言が採択されている。

安全保障理事会

 国際連合は、全加盟国が参加する総会とは別に、安全保障理事会(安保理)を設置した。安全保障理事会は、経済制裁や武力制裁の権限を持った。この安全保障理事会では、5大国の米英ソ中仏には拒否権を与えた。

 冷戦期は、米ソ互いに拒否権を行使したため、機能不全に陥った。そのため、国連軍ではなく、有志連合による多国籍軍が主流になった。

 国際連合には、このほかに以下の期間が設置された。

  • UNESCO(国際連合教育科学文化機関)
  • ILO(国際労働期間)
  • WHO(世界保健機構)

国際金融 ブレトンウッズ体制

 44年6月、国際連合憲章を採択。

 44年7月、戦後復興のためのブレトンウッズ会議。IMF(国際通基金)とIBRD(国際復興銀行)の設立が決定。12月に発足した。

47年11月、自由貿易を進めるためにGATTが発足した。表向きは、ブロック経済のはんせであるが、実際は技術力の高いアメリカ製品を世界各地で販売するためである。

 また、ドルを基軸通貨としたドル金本位制が成立した。

当時のアメリカは世界の鉱工業生産の6割を占め、世界の金の7割を保有していた。

敗戦国の処理

 ドイツは、45年8月の米英ソのポツダム会談の結果を受けて、フランスを加えた4か国で分割統治されることになった。

 また、ニュルンベルクに国際軍事裁判所を設置。ナチス=ドイツの指導者の戦争犯罪が追及された。

 オーストリアは、ドイツから独立。4国の共同管理に置かれた。

 イタリアなどのその他のヨーロッパのドイツ陣営の国々は、47年パリ講和条約を締結した。イタリアはこの時、海外領土を放棄した。

 日本は、アメリカの事実上の単独占領下に置かれた。様々な民主化改革を実施。極東軍事裁判所を設置し、戦争犯罪を裁いた(東京裁判)。日本国憲法が施行された。

冷戦の始まり

ヨーロッパの親ソ政権

イギリス アトリー労働党政権

 イギリスでは、45年の7月の総選挙でアトリー労働党政権が成立。

 ポツダム会談中であったチャーチル首相は急遽帰国。アトリー首相が交渉を引き継いだ。

 アトリー政権は、重要産業の国有化を進めるとともに、「ゆりかごから墓場まで」という高福祉政策を進めた。

フランス 第四共和政へ

 フランスでは、第二次世界大戦中はナチスドイツの支配下にあった。44年8月にパリ解放。46年10月、第四共和政が成立。

イタリア 共和制へ

 ドイツ陣営のムッソリーニ政権下のイタリアは、43年7月にムッソリーニ政権が退陣。43年9月、新政権がイギリス陣営に降伏した。

 45年末、キリスト教民主党政権が成立。46年の国民投票で王政が停止。共和政へ移行した。

共産党の躍進

 フランスやイタリアでは、共産党が大戦中の抵抗運動で重要な役割を担った。そのため、共産党は戦後に大きな勢力を持つようになった。

 また、東欧諸国は、ソ連の軍事力でナチスドイツから独立した。ソ連は、自国の防衛のために東欧に親ソ政権を次々樹立した。

トルーマン=ドクトリン(ギリシャとトルコ)

 46年、チャーチル元首相はアメリカで演説。「鉄のカー^点演説」でソ連への防衛の重要性を説いた。

 47年3月、アメリカのトルーマン大統領は、ギリシャとトルコの軍事支援を表明。これをトルーマン=ドクトリンという。ギリシャでは共産党の反乱が起きており、トルコは海峡問題でソ連と対立していた。

 47年6月、マーシャル国務長官(外務大臣)が経済復興計画(マーシャル=プラン)を発表。貧困が共産党の躍進の理由といわれていることからこの計画が実施された。

 ソ連・東欧諸国は、マーシャル=プランを拒否。47年9月、各国共産党の情報交換機関としてコミンフォルムを結成して対抗した。

冷戦第1ラウンド ベルリン封鎖

東欧

 ポーランドの東欧諸国は、ソ連の後押しを受けて共産党主導の改革が進んだ。土地改革と計画経済による工業化を進めた。

中欧のチェコスロバキア

 48年になると、アメリカ陣営の西欧諸国とソ連陣営の東欧諸国にわかれた。残されたのが中欧諸国のドイツ、オーストリアとチェコスロヴァキアであった。

 48年2月、チェコスロヴァキアでクーデター。共産党政権が成立した。

 これにより、アメリカなどのソ連諸国は西側諸国はソ連への警戒感をいっそう高めた。

独自路線のユーゴスラヴィア

 ユーゴスラヴィアは、ティトー氏率いる共産党組織による独立により、ソ連の支援を受けずにナチスドイツの支配から脱却した。

 戦後、ユーゴスラヴィアは、ティトー氏を中心とした共産党政権が成立した。47年のコミンフォルムsにも参加した。しかし、ティトー氏はソ連の制裁に反対したため、翌48年に除名されて。 

NATO vs ワルシャワ条約機構

 48年2月、チェコスロヴァキアで、クーデター発生。共産党政権が成立。

 翌3月、西ヨーロッパ諸国は、軍事同盟(西ヨーロッパ連合条約)を締結。

 翌4月、アメリカなどの西側諸国が軍事同盟に参加。NATO(北大西洋条約機構)が成立した。

 一方、東側陣営は

 49年1月、ソ連と東欧諸国は、COMECON(コメコン、経済相互援助会議)を発足。47年6月のマーシャルプランに対抗した。

 55年5月、軍事同盟ワルシャワ条約機構を締結。

冷戦1R ベルリン封鎖

 舞台は、中欧のドイツに移った。ドイツは敗戦後、米ソ英仏に分割統治されていた。

 48年2月、中欧のチェコスロヴァキアで共産党政権が成立。

 48年5月、西側の軍事同盟NATOが成立。

 ドイツは、米英仏の西側地域とソ連の東側地域に分断が進んだ。

 48年6月、西側地域で通貨改革を断行。ソ連は、これに反発。西側地域の飛び地であるベルリンへの交通を遮断した。(ベル臨封鎖)

 49年5月、和解。ベルリン封鎖は解除された。

 49年5月、西ドイツ建国。キリスト教民主同盟のアデナウアーが首相になった。

 49年10月、東ドイツ建国。

 54年、パリ協定で西ドイツは主権を回復。

 55年、オーストリアが中立国で独立。

中華人民共和国の成立

国共内戦 毛沢東 vs 蒋介石

 45年8月、日本がポツダム宣言を受諾。日中戦争が終結。

 蒋介石率いる国民党政権が復活した。しかし、党幹部の腐敗。インフレによる経済混乱で民衆は批判を浴びた。この批判は、毛沢東らの共産党の支持につながった。

 47年、共産党は、反攻を開始。国民党は敗戦を繰り返した。

 48年5月、ヨーロッパでベルリン封鎖。欧米諸国の注目はドイツに集まる。

中華人民共和国の成立

 49年10月、中国共産党は、中華人民共和国の成立を宣言。毛沢東氏が主席に、周恩来氏が首相になった。首都は清王朝時代の都北京に置かれた。ソ連に近いのもその理由である。

 49年12月、国民党の蒋介石氏は台湾に逃亡。中華民国政府を維持した。

 中華人民共和国は、イギリス(アトリー政権)やインドなど多くの国が承認した。しかし、アメリカは中華人民共和国を承認しなかった。そのため、国際連盟では、蒋介石氏の中華民国が正式代表の立場をとった。

朝鮮の分断

 舞台は、東アジアの朝鮮半島に移す。

 第二次世界大戦前、朝鮮半島は日本の支配下にあった。43年のカイロ会談で独立が約束された。

 しかし、45年8月に日本軍が撤兵すると、38度線を境界に、北半分をソ連が、南半分をアメリカが占領した。

 米ソは、朝鮮の統一と独立に向けて協議したが決裂した。

 48年、南側は大韓民国が成立。アメリカに亡命していた李承晩氏が大統領になった。一方北側は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立。金日成氏が首相になった。

そして、50年に朝鮮戦争がはじまる。

インドシナ戦争(ベトナムの独立)

東南アジア諸国の独立 40年代

インドシナ戦争

反共軍事同盟

東南アジア諸国の独立 50年代

中東とインド

インドとパキスタン

イラン)モサデグ首相の国有化政策 

中東)第一次中東戦争

インドネシア

フィリピン

ベトナム 

中東 

アフガーニー(イラン)

青年トルコ革命(オスマン帝国)

イラン立憲革命 

アフガン王国