(前史)帝国主義時代のアジア
日本と中国
第一次世界大戦の影響
第一次世界大戦でヨーロッパ系企業が後退。東アジア全体が好景気に沸いた。これに伴い、民族資本(現地の富裕層が作った企業)が台頭した。また、知識人も増加。これにより、民族運動や社会運動が活性化した。
中国 文学革命
中国は、12年の辛亥革命で中華民国が建国。清王朝が滅亡。しかし、軍閥の袁世凱政権が成立。
陳独秀氏の文学革命が起こる。胡適氏や魯迅氏らが参加した。その中心は北京大学である。
ロシア革命の影響で、社会主義(マルクス主義)の研究も盛んになった。陳独秀氏もこれに参加した。
日本 普通選挙法
日本では、第一次世界大戦が始まると普通選挙を求める運動が起こった。大正デモクラシーである。18年にシベリア出兵が行われると、米騒動(米の買い占めに反対する暴動)が起こる。これにより、政党内閣が始まる。25年、普通選挙法と治安維持法が制定される。
日本 vs 中国
ドイツ権益
日本は、イギリス陣営(三国協商)で第一次世界大戦に参加した。理由は、日英同盟である。これにより、中国と太平洋にもつドイツの権益を日本が獲得した。
15年、中華民国の袁世凱政権に対して、清王朝時代の条約の継承を約束させた。これが二十一か条の要求である。袁世凱政権は、これをしぶしぶ承諾した。これにより、中国国民は、反日感情を抱くようになった。
17年にロシア革命が起こると、日本はシベリア出兵が行われた。これは22年まで続いた。
韓国 三一独立運動
韓国は、10年に日韓併合が行われた。
ロシア革命の「平和に関する布告」とアメリカの「平和十四原則」で民族自決が謳われると独立への要求が高まった。19年3月1日、ソウルで「独立万歳」というデモが発生。瞬く間に全国に広がった。これが、三一独立運動である。総督府は、呉れを武力で鎮圧した。
総督府はこのデモを受けて。武断政治から文化政治に切り替えた。19年4月、朝鮮独立運動家たちは、上海で大韓民国臨時政府を樹立した。
中華民国 五四運動
19年のパリ講和会議。アジアからは戦勝国として日本政府と中華民国が参加した。中華民国は二十一か条要求の取り消しと山東半島のドイツ利権の返還を求めた。しかし、パリ講和会議では、これを退けられた。
中華民国では、北京大学の学生を中心に抗議デモ(五四運動)。中華民国政府はこのデモを受けて、ヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるを得なかった。
ワシントン会議と九か国条約
アメリカで共和党のハーディング大統領が誕生した21年、ヴェルサイユ条約についてリセットされた。ワシントン会議である。
テーマは、アメリカの関心事項の4点である。
- 中国政策→九か国条約
- 太平洋政策 →四か国条約
- 軍縮
九か国条約のベースになったのは、99年に提唱したジョン=ヘイの門戸開放宣言である。九か国条約で中華民国の主権尊重と領土保全が約束された。さらに、山東半島のドイツ利権は中華民国に返還された。
中華民国 国民党と共産党
ロシア革命
19年、ロシア革命が成立。平和に関する布告に基づいて、ロシアは中国に持っていた利権を放棄した。そのため、中国国民は、ロシア(ソヴィエト)に好意的な印象を持った。
共産党と国民党
21年、コミンテルンの支援で中国共産党が結成された。指導者は、文学革命を進めた陳独秀である。
孫文らの中国国民党もソ連の援助をうけるようになった。
第一次国共合作
24年、中国国民党が中国共産党員の加入を許可。第一次国共合作。孫文は「連ソ・容共・扶助工農」をかかげて、軍閥打倒・帝国主義打倒を打ち出した。
25年、中国国民党の孫文が病死。
25年5月、上海の日本人経営の工場で労働争議。これをきっかけに五・三〇運動が勃発。
25年7月、中国国民党は広州で国民政府を樹立。
26年、国民政府が軍閥を打倒して中国統一を目指した。(北伐)。国民政府軍を指揮したのが蒋介石である。
27年3月、上海・南京を占領。
上海クーデターで第1次国共合作が終わる
国民政府は、旧共産党の右派と蒋介石を中心とする左派で対立するようになった。
27年4月、蒋介石が上海クーデターをおこし、南京国民政府を樹立。旧共産党員を弾圧した。
蒋介石と軍閥と日本軍
28年、北伐再開。北京に迫った。当時北京周辺を統治していた軍閥が、張作霖である。
日本は、政権交代。強硬外交が進め、張作霖と結んで山東出兵を繰り返した。
張作霖、国民政府軍に敗れ、満州へ敗走。日本軍は、張作霖を爆殺。満州を支配しようとした。しかし、この謀略が失敗。
張作霖の子である張学良は、国民政府の満洲支配を認め、国民性は中国統一を果たした。
蒋介石と上海財閥
蒋介石は、銀行資本(浙江財閥)を結んだ。蒋介石は浙江財閥を通じてイギリスとアメリカの支援をうけるようになった。
毛沢東と中国共産党
27年の上海クーデター以降、南京国民政府への蜂起を行ったが失敗。方針を転換し、農村でソヴィエトを作る方針に転換。
31年、瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立。主席になったのが毛沢東である。
インドの民族運動
19年インド統治法
イギリスは、第一次世界大戦時の約束に基づき、19年インド統治法を制定した。しかし、自治権はかなり制限されたものであった。同じ年、ローラット法を制定。反政府運動を弾圧した。
ガンディ
この時、インドの民族運動の中心は、非暴力を掲げたガンディであった。20年の国民会議派大会で非協力運動を提示した。
イギリスがオスマン帝国のカリフ制を廃止。インドのムスリム(イスラム教徒)が反対運動を展開。ガンディらはこの反対運動に加わった。これにより、ムスリムもガンディらの活動を支援するようになった。
しかし、一部の民族運動が暴徒化。22年にガンディらの活動は中止した。
急進派 ネルー
27年、イギリスは、インド統治法改正のための委員会を設置。しかし、インド人が参加していないため、民族運動は再び激化した。
29年、急進派のネルーらが完全独立を主張。
30年、潮の増税問題で、ガンディらが塩の行進。
35年インド統治法
35年、インド統治法制定。州政府はインド人の完全自治がみとめられる一方で、中央政府はイギリスが掌握し続けた。
37年、インド統治法に基づいて州政府選挙を実施。多くの州が国民会議派が勝利。しかし、一部の州でムスリム系の政党が勝利。
シンナーら全インドムスリム連盟は、インドからの分離独立を求めるようになった。これがパキスタンである。
第二次世界大戦がはじまると、国民会議派を非合法化した。
東南アジアの民族運動
概要
インドネシア
ベトナム
ミャンマー
フィリピン
タイ
オスマン帝国 トルコ革命
vsギリシャ
ムスタファ=ケマル
トルコ共和国
中東
エジプト
アフガニスタン
イラン
サウジアラビア
イラク
パレスチナ
アフリカ
19世紀末、アメリカ合衆国など在住のアフリカ系知識人を中心にパン=アフリカニズムと呼ばれる解放運動が生まれた。
00年、ロンドンでパン=アフリカ会議を開催。い
12年、南アフリカ(イギリス領)でアフリカ民族会議が創設。人種差別運動の撤廃を求める運動が起こる。
第一次世界大戦後、民族運動が各地に広がる。